悲劇を経験した紙帳は、またも悲劇を見るのかというように、尚睨み合っている二人の女と、今や紙帳の裾に蹲居《うずくま》り、刀を例の逆ノ脇に構え、斬って出《い》ずべき機会を窺い、戸外《そと》の物音を聞きすましている左門とを蔽うていた。頼母によって斬られた五郎蔵の乾児たちの血が、新しくかかって、古い血の痕の上を、そうして左右を、新規に深紅に染め、それが、線を為《な》し、筋を為し、円を描き、方形を形成《かたちづく》り、流れ凝《こご》り、紙帳の面貌《おもて》は、いよいよ怪異を現わして来た。
 が、紙帳の外は?
 ここ紙帳の外は、修羅闘争の巷であった。
 頼母は既に紙帳の側から離れ、ふたたび立ち木の幹へ背をあて、群がり寄せ、斬りかかろう斬りかかろうとする五郎蔵の乾児たちを睨み、自分もいつか受けた数ヵ所の負傷《きず》で、――斬った敵方の返り血で、全身|朱《あけ》に染まり、次第に迫る息を調え、だんだん衰える気力を励まし励まし、……
 そういう頼母の眼に見えているのは、正面乾児たちの群の中に立ち、彼を睨んでいる松戸の五郎蔵の姿であった。
 憎悪《にくしみ》に充ちた五郎蔵の眼がグッと据わり、厚い唇が開いたと見てとれた瞬間、怒号する声が聞こえて来た。
「憎いは頼母、親の敵に邂逅《めぐりあ》ったという、義によって助太刀してやったところ、恩を仇に、お浦めをそそのかし、天国の剣を持ち出させたとは何事! 息の根止めずに置かれようか! やア乾児ら、うろうろいたさず、頼母めを討ってとれ! ……おおおお、お浦め、紙帳の中へ引き入れられたまま、いまだに出ぬぞ! ……紙帳の中には左門がいる筈、その左門め、武蔵屋でも、同じ紙帳の中へ、お浦めを引き入れて……許されぬ左門! やア乾児ら、左門めを討ってとれ! ……典膳めの姿が見えぬぞ! 典膳めはどうした? ……俺の過去などと申して、あることないことを云い触らす痩せ浪人! 生かしては置けぬ!」
 喚きちらし、地団駄を踏む五郎蔵の心境《こころ》も、苦しいものに相違なさそうであった。
「やあ汝ら手分けして典膳を探し出せ!」
 声に応じて数人の乾児が、木立ちを潜って走って行く姿が見えた。
「やア松五郎!」と怒鳴る五郎蔵の声がまた響いた。「紙帳を窺え! 紙帳の中を!」
 外光の中で見る紙帳の気味悪さ!

    左門の任侠

 今は中からは人声は聞こえず、周囲《まわり》の、叫喚《さけびごえ》、怒号《どなりごえ》、剣戟《けんげき》の響きを嘲笑うかのように、この、多量に人間の血を浴びた長方形の物像《もののかたち》は、木立ちと木立ちとの間に手を拡げ、弛んだ裾で足を隠し、静かに立っている。吸っても吸っても血に飽かないこの怪物は、これまでも随分血を吸ったが、今日こそはそれにも増して、充分に吸うぞというかのように、静かな中にも胴顫いをさせている。そう、微風につれて、ゆるやかな弛みを作ったり、幽かな襞《ひだ》を作ったりしているのであった。裾の一所に、背を光らせた蜥蜴《とかげ》がいて、這い上がろうとし、短い足で紙帳を掻いているのも、魔物めいていて不気味であった。
 と、その紙帳目掛け、松五郎なのであろう、一人の乾児が、抜き身を引っさげたまま、仲間の群から駈け抜け、走り寄るのが見えた。が、その体が紙帳へ寄り添ったと見えた瞬間、悲鳴が起こり、丸太のようなものが一間ばかり飛び、足を股から斬り取られた松五郎が、鼠|煙火《はなび》のように地上をぶん廻り、切り口から、龍吐水《りゅうどすい》から迸《ほとばし》る水のように、血が迸り、紙帳へかかるのが見えた。
 すぐに紙帳の裾がパックリと口を開け、そこから身を斜めにし、刀を袖の下にした、痩せた長身の左門が、ソロリと潜《くぐ》り出て来た。
「出たーッ」
 と、五郎蔵は、自分が襲われたかのように叫んだ。
 左門は紙帳を背後にし、頬の削《こ》けた蒼白い顔を、漲る春の真昼陽に晒らして立ち、少しまぶしそうに眼をしばたたいた。
「出た! 本当に出た! 左門が!」
 立ち木に背をもたせ、五郎蔵とその乾児たちとを睨んでいた頼母も、紙帳を出た左門を認め、声に出して叫んだ。悪寒が身内を氷のように走った。
(絶体絶命! ……俺はここで討たれるのか!)
 大勢の五郎蔵の乾児たちを相手に斬り合うだけでさえ、今は手に余っていた。そこへ、いよいよ、自分より段違いに腕の勝れた左門が現われ出たのであった。勝ち目はなかった。
(残念! 返り討ちに逢うのか! ……栞殿を眼の前に置きながら、返り討ちに!)
 眩《くら》みかかった彼の眼の、その眼界を素走って、五郎蔵の乾児数人が、左門へ襲いかかって行くのが見えた。と、その乾児たちを無視したように、左門の豹のような眼が、頼母の方へ注がれたが、
「頼母氏!」
 という声が聞こえて来た。
「紙帳の中の二人の女子――
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