気勢に恐れて、左門が逃げたと思ったからであった。頼母は追った。
 何んたる軽捷《けいしょう》! 左門は、背後《うしろ》ざまに縁の上へ躍り上がった。構えは? 依然として逆ノ脇! そこへ柳が生えたかのように、嫋《しなや》かに、少し傾き、縁先まで追って来た頼母を見下ろしている。危ないかな頼母! 左門の、例の、肩から左胴まで柔らかに湾曲している腕が延び、その手に握られて、背後ざまに隠されている刀が、電光のように閃めき出た時、お前の脳天は、鼻から頤まで、切り割られるのを知らないのか!
 それにしても左門は、何んのために縁まで退いたのであろう? 暗い部屋の中の、灰白い紙帳を背後にして立っている左門が、心の中で叫んでいる声を聞いたなら、その理由を知ることが出来よう。
「父上よ父上よ、あなたを辱《はず》かしめ、あなたを憤死させました、忠右衛門の忰頼母めを、今こそ討ち取りまして、父上の怨みの残りおります紙帳へ、その血を注ぐでございましょう。止どめは、天国の剣で致しまする」
 つまり左門は、頼母の血を、亡父の怨恨《うらみ》の残っている紙帳へ注いでやろうと、紙帳間近まで、頼母を誘《おび》き寄せて来たのであった。
 そうと知らない頼母は不幸であった。自分の気勢に圧せられて逃げる左門、たかが知れている! もう一息だ! こう思った頼母は不幸であった。
 微塵《みじん》になれ! と、頼母は、縁へ躍り上がり、斬り付けた。
「あッ」
 左門の姿が消え、眼前に紙帳が、風に煽《あお》られたかのように、戦《そよ》いでいた。
(部屋の中へ逃げ込んだのだな)
 頼母は突嗟《とっさ》に思った。
(紙帳の中へはいった筈はない。……では、背後に?)
 さすがに用心をし、頼母はソロソロと部屋の中へはいって行った。敷居を跨《また》ぎ左右を見た。正面三、四尺の間隔《へだたり》を置いて、紙帳が釣ってあり、その左右は闇であり、闇の彼方《あなた》には、部屋の壁が立っている筈であった。……左門の姿はどこにも見えなかった。
(紙帳の背後に隠れているのか、それとも、左右どっちかの、紙帳の横手に、身をひそめているのか?)
 頼母は、紙帳を巡って、敵を討とうと決心しながらも、右へ行こうか、左へ行こうかと迷った。しかしとうとう、左手へ心を配りながら、右の方へ進んだ。紙帳の角がすぐ前にあった。角の向こう側に、左門が隠れているかもしれない。頼
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