が……)
 しかし……いや、しかしも何もない、声の主を確かめさえすればよいのだ! ……しかし、それをするには、やっぱり襖をあけなければ……。
(咎《とが》められたら、部屋を間違えたと云えばよい)
 頼母は、わざと無造作に襖をあけた。
「あッ」
 声と一緒に、ほとんど夢中で、頼母は、庭へ飛び下り、これも夢中で抜いた刀を、中段に構え、切っ先越しに、部屋の中を睨《にら》んだ。
 見誤りではなかった。帳内《なか》で灯っている燈の光で、橙黄色《だいだいいろ》に見える紙帳が、武士の姿を朦朧《もうろう》と、その紙面《おもて》へ映し、暗い部屋の中に懸かっている。
(林の中に釣ってあった紙帳だ。では、あの中にいる武士は、五味左門に相違ない。……先夜は、知らぬこととはいえ、同じ飯塚薪左衛門殿の屋敷へ泊まり合わせ、今夜は、同じこの旅籠の、しかも壁一重へだてた部屋に泊まり合わせようとは)
 運命の不思議さ気味悪さに、頼母は、一瞬間茫然としたが、
(左門は親の敵、あくまで討ち取らなければならないのであるが、あの凄い腕前では……)
 体の顫えを覚えるのであった。
 しかし彼にとって、一抹の疑惑があった。紙帳は、左門ばかりが釣っているとは限らない。紙帳の中の武士は、左門ではないかもしれない……。
(何んといって声をかけたらよかろうか?)
 彼はしばらく紙帳を睨んで躊躇《ためら》った。
 紙帳は、そういう彼を、嘲笑うかのように、そよぎ[#「そよぎ」に傍点]もしないで垂れている。
「卒爾ながら、紙帳の中のお方にお訊ね致す」
 と、とうとう頼母は、少し強《こわ》ばった声で云った。
「貴殿、先夜、飯塚薪左衛門殿の屋敷へ、お泊まりではなかったかな」
 こう云ってから、これはいいことを訊いたと思った。泊まったといえば、紙帳の中の武士は、五味左門に相違ないからであった。何故というに、左門は、先夜、自分の本名を宣《なの》って、薪左衛門の屋敷へ泊まったということであるから。
 しかし紙帳の中からは、返辞がなく、紙帳に映っている人影も、動かなかった。
 頼母は焦心《あせり》を感じて来た。それで、ジリジリと、縁側の方へ歩み寄りながら、
「貴殿はもしや、五味左門と仰せられるお方ではござらぬかな?」と訊いた。
 すると、ようやく、紙帳に映っている人影が動き、嗄《しわが》れた声で、
「そう云われる貴殿は、どなたでござるかな
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