血ぬられた懐刀
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)某《それがし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)万事|四辺《あたり》は

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+(虍/且)」、第4水準2−15−45]《しどみ》の花
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別るる恋

「相手の権勢に酔わされたか! ないしは美貌に魅せられたか! よくも某《それがし》を欺むかれたな!」
 こう罵ったのは若い武士で、その名を北畠秋安《きたばたけあきやす》と云って、年は二十三であった。
 罵られているのは若い娘で、名は萩野《はぎの》、十九歳であった。
 罵られても萩野は黙っている。口を固く結んでいる。そうして足許を見詰めている。その態度には憎々しいほどの、決心の相が見えている。
「さようか、さようか、物を言わぬ気か、それ程までに某を、もう嫌って居られるのか。薄情もそこまで行き詰めれば、また潔いものがある。で、某も潔くやろう。二人の仲は今日限りに、あか[#「あか」に傍点]の他人の昔に帰ろう。が、一言云って置く、不破小四郎《ふわこしろう》は伴作《ばんさく》殿の従兄《いとこ》で、関白殿下のご愛臣で美貌と権勢と財宝とを、三つながら遺憾なく備えて居られる。で、幸福のお身の上よ。が、そういうお身の上の方は、何事につけても執着がなくて、女子などにも薄情なものだ。で、其方《そなた》に予言して置く、間もなく小四郎に捨られるであろうぞ」
 捨石から腰を上げた秋安は、萩野を尻眼に睨んだが、そのままスタスタと歩き出した。一切未練は俺にはない――と云ったような歩き方である。とは云え灌木の陰へかくれて、萩野の姿の見えなくなると一緒に、その歩き方は力なげになった。
 絶望が心に涌いたからである。
 ここは京都の郊外の、上嵯峨《かみさが》へ通う野路である。御室《おむろ》の仁和寺《にんなじ》は北に見え、妙心寺《みょうしんじ》は東に見えている。野路を西へ辿ったならば、太秦《うずまさ》の村へ行けるであろう。
 その野路をあてもなく、秋安は西の方へ彷徨《さまよ》って行く。
 季節は酣《たけなわ》の春であった。四條の西壬生《にしみぶ》の壬生寺では、壬生狂言があるというので、洛内では噂とりどりであった。そうして嵯峨の嵯峨念仏は、数日前に終わっていた。
 そういう酣の春であった。
 この野路の美しさよ。
 木瓜《ぼけ》の花が咲いている。※[#「木+(虍/且)」、第4水準2−15−45]《しどみ》の花が咲いている。※[#「米+屑」、484−下−13]花《こごめ》の花が咲いている。そうして畑には麦が延びて、巣ごもりをしている鶉《うずら》達が、いうところのヒヒ鳴きを立てている。
 農家がパラパラと蒔かれていたが、多くは花に包まれていた。白いのは木蓮か梨の花であろう。赤紫に見えるのは、蘇枋《すおう》の花に相違ない。
 と、灌木の裾を巡って、孕鹿《はらみじか》が現われた。どこから紛れ込んだ鹿なのであろう? 優しい眼をして秋安を見たが、臆病らしく走り去った。
 白味を含んだ蒼い空から、銀笛の音色を思わせるような、雲雀《ひばり》の声が降って来る。そうしてヒラヒラと野路からは、絹糸のような陽炎《かげろう》が立つ。
 万事|四辺《あたり》は明るくて、陽気で美しくて楽しそうであった。
 が、暗いものが一つあった。他ならぬ秋安の心であった。
「萩野と馴染んで一年になる。その交情は厚かったはずだ。あの女を苦しめた覚えはない。愛して愛して愛し抜いたはずだ。裏切られるような薄情なことを、俺は一度もしたことがない。にもかかわらず裏切られた。女の心というものは、ああも手の平を飜《か》えすように、ひっくりかえるものだろうか?」
 考えながら歩いて行く。
「あの花園の森の中で、去年松の花の咲く頃に、はじめて恋を語り合ったが、同じ松の花の咲く季節の、今年の春には同じ森で、気不味《きまず》い別離を告げようとは……何だか俺には夢のようだ。化かされているような気持もする」
 考えながら彷徨って行く。
 と、にわかに笑い出した。
「ハッハッハッ、何と云うことだ! 未練もいい加減にするがいい。向こうから俺を捨たのだ。何をクヨクヨ思っているのだ」
 しかしやっぱり寂しかった。
 で、あて[#「あて」に傍点]なしに歩いて行く。
 しかしそういう寂しい心を、厭でも捨なければならないような、一つの事件が勃発した。
 行く手の森陰からけたたましい、若い女の悲鳴が聞こえて、つづいて四五人の男の声が、これもけたたましく聞こえたからである。
 で、秋安は走って行った。
 廻国風の美しい娘を、五人の若い侍が、今や手籠めにしようとしている。


助けた女は?

 それと見てとって秋安が、勃然と怒りを発したのは、まさに当然ということが出来よう。
「方々!」と声をかけながら、武士の間へ割って行ったが、
「お見受けすればいずれも武士、しかも立派なご身分らしい。しかるに何ぞや若い娘を捉えて、乱暴狼藉をなされるとは! 体面にお恥じなさるがよろしい!」
 叱咤の声をひびかせた。
 凜々しい態度と鋭い声に、気を呑まれたらしい五人の武士は、捉えていた娘を手放すと、一斉に背後《うしろ》へ飛び退いたが、見れば相手は一人であった。それに年なども若いらしい。で、顔を見合わせたが、中の一人が進み出た。
「これ貴様は何者か! 我々の姿が眼に付かぬか! 銀の元結、金繍の羽織、聚楽風《じゅらくふう》だぞ、聚楽風だぞ!」
 云われて秋安は眼を止めて見た。
 いかにもそれは聚楽風であった。
 すなわち関白|秀次《ひでつぐ》に仕える、聚楽第の若い武士の、一風変わった派手やかな、豪奢を極めた風俗であった。
 そうしてその事が秋安の心を、一層の憤りに導いた。
「ははあ左様か、ご貴殿方は、関白殿下にお仕えする、聚楽第のお歴々でござるか。ではなおさらのことでござる。乱暴狼藉はおやめなされ! それ関白と申す者は、百官を總《す》べ、万機を行ない、天下を関《はか》り白《もう》する者、太政大臣《だじょうだいじん》の上に坐し、一ノ上とも、一ノ人とも、一ノ所とも申し上ぐる御身分、百|姓《せい》の模範たるべきお方であるはずだ。従ってそれにお仕えする、諸家臣方におかれても、等しく他人《ひと》の模範として、事を振舞いなさるが当然。しかるに何ぞや娘を捉え、淫がましい所業《しわざ》をなさる! いよいよお恥じなさるがよい」
 ウンとばかりに遣り込めた。
 こう云われたら[#「云われたら」は底本では「云はれたら」]一言もなく、引き下るかと思ったところ、事は案外に反対となった。五人刀を抜きつらね、秋安へ切ってかかったのである。
「関白の説明汝に聞こうか! 地下侍《じげざむらい》の分際で、痴《おこ》がましいことは云わぬがよい。ここに居られるのは殿下の寵臣[#「寵臣」は底本では「籠臣」]、不破小四郎行春様だ。廻国風のその娘に、用あればこそ手をかけたのだ! じゃま立てするからにはようしゃはしない、汝《おのれ》犬のように殺してくれよう!」
 一人が飜然と飛び込んで来た。
 身をひるがえした秋安は、太刀を抜いたが横ッ払った。殺しては後が面倒だ、そう思ったがためであろう、腰の支《つがい》を平打ちに一刀!
「ウ――ム」と呻いてぶっ仆れる。
 と、懲りずまにもう一人が、刎ねるがように切り込んで来た。
 すかさず突き出した秋安の太刀に、ガラガラガラと太刀を搦らまれ、ギョッとして引こうとしたところを、秋安太刀をグッとセメ[#「セメ」に傍点]た。ガラガラと地上で音のしたのは、敵が獲物を落としたからである。
「これ!」と叫ぶと秋安は、五人をツラツラと見渡したが、
「不破小四郎と申したな! 誰だ、どいつだ、進み出ろ! この秋安一見したい! 少しく拙者には怨みがある」
 ここで一人へ眼をつけたが、
「ははあ貴殿か! 貴殿でござろう!」
 そっちへツカツカと歩み寄る。
 歩み寄られた若侍は、いかさま不破小四郎でもあろう、一際目立つきらびやか[#「きらびやか」に傍点]の風で、そうして凄いような美男であった。
 が、案外な卑怯者らしい。太刀こそ抜いて構えてはいるが、ヂタ、ヂタ、ヂタと後へ引く。
 秋安にとっては怨敵である。萩野を奪われた怨みがある。
「こいつばかりは叩っ切ってやろう!」
 で、ツツ――ッと寄り添った。
 主人あやうしと見て取ったものか、二人の武士が左右から、挿むようにして切り込んで来た。
 と、鏘然たる太刀の音!
 つづいて森の木洩陽を縫って、宙に閃めくものがあった。払い上げられた太刀である。
 すなわちは北畠秋安が、一人の武士の太刀を払い、そうして直ぐにもう一人の太刀を、宙へ刎ね上げてしまったのである。
 と、逃げ出す足音がした。
 主人の小四郎を丸く包み、五人の武士が太刀を拾わず、森から外へ逃げ出したのである。
「待て!」と秋安は声をかけたが、苦笑いをすると突立った。
「追い詰めて殺すにも及ぶまい。祟りのほどがうるさいからなあ」
 で、抜いた太刀を鞘へ納め、パチンと鍔音を小高く立てたが、改めて娘の様子を見た。
 木洩陽を浴びて坐っている、廻国風の娘の顔の、何と美しく気高いことよ!
 そうしてこれほどの闘いにも、大して恐れはしなかったと見えて、別に体を顫わせてもいない。
 とは云え勿論顔の色は、蒼味を加えてはいるのである。
「ほう」
 秋安が声を上げたのは、その美しさと気高さとに、心を驚かせたからである。
 恋を失った秋安は、どうやら意外の出来事から、新しい恋を得るようである。

 が、それはそれとして、この日が暮れて夜になった時、花園の森の一所へ、一人の女が現われた。


闇の中の声

「秋安様の予言どおりに、妾《わたし》は小四郎様にあざむかれた」
 さも後悔に堪えないように、声に出して女は呟いたが、他ならぬ娘の萩野であった。
 今宵も忍んで来るがよいと、こういう約束があったので、萩野は恋心をたかぶらせながら、聚楽第《じゅらくだい》の付近にある、小四郎の住居《すまい》まで行ったところ、小四郎はどうしたものであろうか、けんもほろろの挨拶をして、萩野を追い返してしまったのである。
「野に在る花は野にあるがよい。其方《そなた》はやっぱり野にある花だ。しかるに私《わし》は聚楽の家臣、地下の者とは身分が違う。何もお前を嫌うのではないが、これまでの縁はこれまでとして、其方は其方の昔にかえり、私は私の昔にかえろう。で、今後は私も行かぬ。其方も私を訪ねないがよい」
 こういう露骨の言葉をさえ、萩野は小四郎から貰ったのである。
 ことの意外に驚きながらも、どうすることも出来なかった。しかしどうしてそうもにわかに、小四郎の心が変わったのか、萩野には見当が付かなかった。
 で、それだけでも聞きだそうと思って、小四郎の袖を抑えた時、潜戸《くぐりど》が内からとざされた。で、聞くことさえ出来なかった。
 で、そのまま婢女《はしため》を連れて、しおしおと家へ帰ったのであったが、悲しさと口惜しさと怒りとで、眠ることなど出来そうもない。
 で、フラフラと家を出て、近くの花園の森へまで、来るともなしに来たのであった。
 萩野は松の木へ額をあて、じっと物思いに沈んでいる。
 木洩れの月光が森の中へ、薄蒼い縞を投げている。それに照らされた萩野の肩の、寂しそうなことと云うものは!
 と、その肩が顫え出した。すすり泣いている証拠である。
「小四郎様と比較《ひきくらべ》て、秋安様の親切だったことは! そういうお方を振りすてて、小四郎様へ気を向けたのは、妾《わたし》の愚かというよりも、魔が射したものと思わなければならない。そのあげくに[#「あげくに」に傍点]妾は捨られたのだ。誰にも逢わす顔がない。ましてや今さらオメオメと、秋安様とは逢うことは出来ない。ちょっとした心の迷いから、二つの恋を失ってしまった」
 限りない絶望と悔恨とが、今や萩野をと
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