らえたのである。
「ああこの森で秋安様と、幾度|媾曳《あいびき》をしたことやら。そのつど何と秋安様が、妾を愛撫して下すったことやら。思い出の多い花園の森! 一本の木にも一つの石にも、忘れられない思い出がある」
 フラフラと萩野は歩き出した。
「ああここに杉の木がある」
 一本の杉の木へ手を触れたが、しずかに幹を撫で廻した。
「この木の幹に背をもたせかけて、はじめて秋安様がこの妾へ、恋心をお打ち明け下されたのは、一年前の今頃であった。あの時妾はまあどんなに、嬉しくも恥しくも思ったことか。『妾は幸福でござります。妾も貴郎《あなた》様をお愛しします』と、茫《ぼっ》とした声でお答えしたはずだ」
 一本の桜の老木があった。木洩れの月光に浮き出して、満開の花が綿のように、森の天井を染めている。
 その桜の木へ障《さ》わったが、萩野は幹へ額をあてた。
「この桜の花の下で、行末のことを語り合い、あのお方の熱い唇を、はじめて額へ受けたことがある。昨日《きのう》のように思われるが、やはり一年の昔だった」
 松の巨木が聳えている、幹に月光が斑を置いていた。
 その幹へ萩野は寄りかかったが、袂で顔を蔽うようにした。にわかに体が縮《ちぢ》まったのは、根元へうずくまったからであろう。しばらくの間は身動きもしない。何かを思い詰めているらしい。ただ肩ばかりが顫えている。いぜんとして泣いているからであろう。
 やがて心を定めたかのように、萩野はゆるゆると立ち上ったが、腰の辺りを探り出した。
 と、紐がクルクルと解けた。
 仰ぐように顔を上向けて、松の下枝へ眼をやったが、片手を上げて紐を投げた。
 松の枝へかかって下った紐を、両手で握って引いたのは、縊《くび》れて死のうとするのでもあろう。
 縊れて死のうとしたのであった。
 しかし紐の端へ頤をかけた時に、背後《うしろ》から二本の腕が出て、萩野の肩を引っかかえた。
「ひとつ御相談にのりましょう。短気はおやめなさりませ。死ぬほどの事情がありましても、生きられる事情にもなりますもので。ひとつ御相談に乗りましょう。私にお任《まか》せなさりませ」
 つづいてこういう声がしたが、優しい老人の声であった。


秋安の館

 ちょうど同じ晩のことであるが、秋安の屋敷の一間の中で、廻国風の美しい娘と、北畠秋安とが話していた。
 秋安の父は秋元《あきもと》と云い、北畠|親房《ちかふさ》の後胤として、非常に勝れた家柄であった。学者風の人物であるところから、公卿にも、武家にも仕えようとはせずと、豪族の一人として閑居していた。
 聚楽第《じゅらくだい》の西の花園の地に、手広い屋敷を営んで、家の子郎党も多少貯え、近郷の者には尊敬され、太閤秀吉にも認められ、殿上人にも親しまれて、のびやかに風雅にくらしていた。しかし身分は無位無官で、地下侍には相違なかった。
「人間の栄華というようなものは、そうそう長くつづくものではない。よし又長くつづいたところで、大して嬉しいものではない。栄華には栄華の陰影《かげ》として、不安なものがあるものだ。人の本当の幸福は、小慾にあり知足にある」
 これが秋元の心持であった。従って伏見桃山の栄華や、聚楽の豪奢に対しても、全くのところ風馬牛であった。
 とは云え関白秀次の態度――すなわち兇暴と荒淫との、交響楽じみた態度については、苦々しく思っていた。
「今にあの卿は亡ぼされるであろう」と、人に向かって噂などもした。
 そういう秋元の子であった。秋安も閑雅の人物であったが、若いだけに覇気があって、飯篠長威斎《いいささちょういさい》の剣法を学び、極意にさえも達していた。
 そういう豪族の居間である。
 秋安と美しい廻国風の娘と、語り合っているその部屋には、狩野山楽《かのうさんらく》の描いたところの、雌雄孔雀の金屏風が、紙燭の燈火《ひかり》を明るく受けて、さも華やかに輝いている。
「……そういう訳でございまして、妾《わたし》の父母と申しますものは、秀次公に滅ぼされました、佐々隆行《ささたかゆき》の一族で、相当に栄華にくらしました。でも両親が宗家と共に、城中で切腹いたしまして、妾一人が乳母や下僕に、わずかに守られて城を出てからは、昔の栄華は夢となり、丹波《たんば》の奥の狩野《かの》の庄で、みすぼらしく寂しく暮らしました。その中に親切な乳母も下僕も、この世を去ってしまいましたので、いよいよ妾は一人ぼっちとなり、途方にくれたのでござります。今は天下は治まりまして、秀次公には関白職、そうして妾は女の身分、それに戦いで滅ぼされましたは、戦国時代の習慣としまして、誰も怨もうこともなく、で、妾《わたくし》といたしましては、今さら父母の仇敵と、秀次公を狙おうなどとは、決して思っては居りませぬどころが、手頼《たよ》り無い身でござりますので、いっそ両親の菩提のために、諸国の神社仏閣を、巡拝いたそうと存じまして、京都へ参ったのでございました。でもともかくも秀次公に仕える聚楽第の若いお侍に、手籠めに合いなどいたしましたら、逝き父母に対しては申訳なく、妾自身に対しましては、恥しい次第にございます。……ほんにあの時お助け下され、何とお礼を申してよいやら、有難い次第にござります。……それにこのようにご親切に、お屋敷へさえお連れ下され、手厚い介抱を受けまして、いよいよ忝《かたじ》けなく存じます」
 その娘の名はお紅《べに》と云い、北国の名家、佐々隆行、その一族の姫なのであった。その父の名は時明《ときあきら》、その母の名はお園の方、一時はときめいた[#「ときめいた」に傍点]身分なのであった。
 それであればこそお紅という娘も、貧しい貧しい廻国風の姿に、身を※[#「にんべん+肖」、第4水準2−1−52]してはいるけれど、臈たけいまでに[#「臈たけいまでに」はママ]品位があり、容貌が打ち上って見えるのであった。
 素性を聞いたために秋安が、いよいよお紅という娘に対して、いわれぬ愛着と尊敬とを、感じたことは言うまでもない。
 で、幾度も頷いたが、
「いずれ由緒《よし》あるお身の上とは、最初から存じて居りましたが、そのような名家の遺兒《わすれがたみ》とは、思い及びも致しませんでした。そういうお方をお助けしたことは、この秋安にとりましては、名誉のことにござります。で、お尋ねいたしますが、今後はいかようになされます? やはりご廻国なさいますお気で?」
「はい」と云うと娘のお紅は、寂しそうに顔を俯向けたが、
「手頼り無い身にござります。一人ぼっちの身にござります。やはり諸国を巡りまして、神社仏閣を参拝し、この一生を終わります他には、手段はないように存ぜられます。今宵一夜だけお泊め下されて。明日はお許し下さりませ。早々においとまいたしまして……」
「旅へ立たれるお意《つもり》なので?」
「そう致しとう存じます」
「が、またもや悪漢どもが、苦しめましたならどうなされます」


途絶えた鼓

 これがお紅には気がかりなのであろう。俯向いたままで黙っている。
 どうやら夜風でも出たらしい、この離座敷《はなれ》の中庭あたりで、木々のざわめく音がした。
 庭には花が咲いているはずだ。風に巻かれて諸々の花が、繚乱と散っていることであろう。
 が、この部屋は静かである。燈火《ともしび》が金屏《きんぺい》に栄えている。円窓の障子に薄蒼く、月の光が照っている。馨しい焚物の匂いがして、唐金の獅子型の香炉から、細々と煙が立っている。
 なやましい春の深夜である。
 それに似つかわしい美男、美女が、向かい合って黙って坐っている。
[#ここから3字下げ]
花ヲ踏ンデ等シク惜シム少年ノ春
燈火ニ背ムイテ共ニ憐ム深夜ノ月
[#ここで字下げ終わり]
 そういう眺めと云わなければならない。
 と、鼓の音がした。秋元の居間から聞こえてくる。つれづれのままに取り出して、秋元が調べているのであろう。曲はまさしく敦盛《あつもり》であった。一つ一つの鼓の音が、春の夜に螺鈿《らでん》でも置くように、鮮やかに都雅に抜けて聞こえる。
 秋安とお紅とは顔をあげたが、じっとその耳を傾けた。
 と、自ずから眼が合った。
「まずお聞きなさりませ」
 眼を見合わせた一瞬間に、秋安はお紅の眼の中に、愛情の籠もっていることを、直覚的に看て取った。
「廻国をするということは、この娘の本当の願いではない。たしかにこの俺を愛している」
 そういうことも感ぜられた。
 で、秋安は勇気づいて、思う所を述べ出した。
「まずお聞きなさりませ」――秋安は云いつづけた。
「手頼り無いお身の上でござりましょう。では貴女《あなた》には何を措いても、手頼りになるような人物を、お求めにならなければなりません。一人ぼっちでござりましょう。では貴女は、何を措いても、一人ぼっちでないように、お務めなされなければなりません。天下は治まっては居りますものの、洛中にさえ乱暴者はいます。ましてや他国へ出ましたならば、魑魅魍魎《ちみもうりょう》にも劣るような、悪漢どもが居りまして、よくないことをいたしましょう。で、そのような危険な旅へ、好んでお出かけなさるよりも、ここに止まりなさりませ。私ことは土地の豪族で、先祖は北畠親房《きたばたけちかふさ》で、名家の末にござります。家の子郎党も多少はあり、家の生活《くらし》も不自由はせず、父は学究でござりまして、心も寛《ひろ》く親切でもあり、そうして私といたしましても、自分で自分を褒めますのは、ちとおかしくはござりますが、まず悪人ではござりませぬ。名家の遺児の貴方様を、ここでお世話をいたすことぐらいは、私の家といたしましては、何でもないことでござります。そうして率直に申しますれば、私の心と申しますものは、ただいま寂しいのでござります。訳はただいまは申しませぬが、ある軽率な女子のために、裏切られたからでございます。……でもし貴女がお止まり下され、朝夕お話し下されましたら、どんなに私といたしましては、有難いことでござりましょう。心の傷手も自然と癒り、ほんとうに新しく生きることが、出来ますようにも存ぜられます。……是非にお止まり下さりませ。それこそ貴女のおためでもあれば、私のためでもござります。助け合う者がありましてこそ、慰め合うものがありましてこそ、この殺伐でくらしにくい、厭な人の世もくらしよくなり、生きて行くことが出来ましょう」
 しかしお紅はそう云われても、すぐにその言葉に応じようとはせず、いぜんとして黙って俯向いていた。
 と云って秋安のそういう言葉を、決して疑っているのではなく、ましてや秋安の親切な心を、受け入れまいとしているのではなかった。
 ただお紅の心としては、秋安の好意が著しいために、かえってそれに圧倒され、そうしてそれに従うことは、その著しい秋安の好意に、つけ[#「つけ」に傍点]込むように感ぜられて、相済まないように思われるのであった。
 素性の卑しい人間ならば、相手の好意に取り縋って、すぐにも自分の苦しい境遇を、救って貰おうとするだろう、立派な素性であるがために、かえってお紅は矛盾を感じて、心を苦しめているのであった。
 で、しばらくは無言である。
 鼓の音ばかりが聞こえてくる。
 が、にわかに鼓の音が、糸でも切ったようにフッと切れた。
 これはどうしたことなのであろう? 曲は終わってもいないのに。
 しかし向かい合って沈黙して、互いに相手の心持を、探り合っている二人には、にわかに切れた鼓の音に、注意の向かうはずはなかった。そうして、いっそう人の足音が、秋元の居間から幽かに聞こえ、そうして襖が一二度開き、そうして足音が家の中から、庭上へ移ったということなぞに、感付かなかったのは当然と云えよう。


骸を前の新生の恋

 とは云え忽ち庭上から、
「何者!」という鋭い声が響き、つづいてアッという悲鳴が起こり、それに引きつづいて乱れた足音が、いくつか聞こえてきた時には、秋安とお紅も感付いた。
 素破《すわ》! と云うような意気込みで、秋安は円座から飛び上ったが、鹿角にかけてあった太刀を握《つか》むと、襖をひらいて
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