あった。
 素性の卑しい人間ならば、相手の好意に取り縋って、すぐにも自分の苦しい境遇を、救って貰おうとするだろう、立派な素性であるがために、かえってお紅は矛盾を感じて、心を苦しめているのであった。
 で、しばらくは無言である。
 鼓の音ばかりが聞こえてくる。
 が、にわかに鼓の音が、糸でも切ったようにフッと切れた。
 これはどうしたことなのであろう? 曲は終わってもいないのに。
 しかし向かい合って沈黙して、互いに相手の心持を、探り合っている二人には、にわかに切れた鼓の音に、注意の向かうはずはなかった。そうして、いっそう人の足音が、秋元の居間から幽かに聞こえ、そうして襖が一二度開き、そうして足音が家の中から、庭上へ移ったということなぞに、感付かなかったのは当然と云えよう。


骸を前の新生の恋

 とは云え忽ち庭上から、
「何者!」という鋭い声が響き、つづいてアッという悲鳴が起こり、それに引きつづいて乱れた足音が、いくつか聞こえてきた時には、秋安とお紅も感付いた。
 素破《すわ》! と云うような意気込みで、秋安は円座から飛び上ったが、鹿角にかけてあった太刀を握《つか》むと、襖をひらいて
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