福に……」
施しを快く受けられたので、お紅は喜悦を感じたらしい。ちょっと会釈すると身をひるがえして、行き過ぎた秋安の後を追って灌木の裾を向こうへ廻った。
と、じいいっとその後を、萩野は涙の眼で見送ったが、突然梶太郎の膝の上へ、しっかりと、顔を押しあてた。
「ねえ行きましょうよ、遠い他国へ、流浪しましょうよ、二人で一緒に!」
そうして烈しく咽び泣いた。
「…………」
茫然とした若者の梶太郎には、何故そうもにわかに萩野の心が、一変したかが解《わか》らなかった。それは実際解らなかったが、一緒に流浪をしようという、萩野の心は嬉しかった。嬉しい以上に有難かった。
「萩野さん、私はお礼を云うよ。ああ行こう、一緒に行こう。……そうしてお前さんは私のものだ」
「貴郎のものでございますとも! ただ今の若い美しいお方も、祝福をして下さいました。……私達二人を! 夫婦と見做して!」
「私の妻だ!」と抱きかかえた。その梶太郎に抱かれたままで、萩野はうっとり[#「うっとり」に傍点]と呟いた。
「あの人達は京都《みやこ》に住む! 賑やかな明るい派手やかな京都に! そうしてそこでお暮らしになる。幸福に、幸福に、幸福に! ……でも私達は林や野や、小さい駅《うまやじ》や宿《しゅく》で住む! でもちっとも違いはない。幸福にさえ暮らそうとしたら……きっと幸福にくらすことが出来る!」
「わし[#「わし」に傍点]は今でも幸福だよ、たった今|私《わし》は幸福になった。……しかし、お前には、秋安というお方が……」
「何にも有仰《おっしゃ》って下さいますな。……もう逢ったのでございます。……逢ったも同じなのでございます……」
拭くに由無い満眼の涙! 萩野の眼頭から流れ出たが、頬を伝わって頤まで来た。昔の恋を思い断って、新しい恋に生きようとする、悲しみと喜びの涙なのである。
花園の森は昼の日に明るく、草木と人とを照らしている。その中で桜花が蒸されている。
が、間もなく森の中から、十数人の香具師達が、流浪の人に特有の、軽快な自由な足どりで、笑いさざめきながら現われた。
近江をさして行くらしい。
その先頭に歩いて行くのは、新婿新妻を想わせるところの、梶太郎とそうして萩野であった。
肩と肩とを寄せ合って、つつましやかに歩いて行く。
野には陽炎、小鳥の声々! そうして行手にあるものは、新しい恋と生活と
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