、森の一方から聞こえてきたが、次第にこっちへ近寄って来て、間もなく姿を現わした。一人は北畠秋安で引き添うようにして美しい婦人が、――それは他ならぬお紅であったが、侍女を従えて歩いて来た。二人はどう見ても夫婦であった。そうして事実夫婦なのであった。その証拠さえそこにある、侍女が嬰兒《うぶこ》を大切そうに、胸の辺りに抱いている。
話しながらゆるゆると歩いて来る。
「今年も松の花が咲くようになった。思い出の多い松の花だ。この森にも思い出が多い。……あれからあの女はどうしたことやら」
感慨にたえないというように、秋安はしめやかに呟いたが、
「どこぞで幸福にくらして居ればよいが」
「萩野様のことでございますか?」
こうお紅は訊き返したが、
「もうどうやら貴郎《あなた》様には、怨みも憎しみもなくなられたようで」
「今では幸福をいのるばかりだ。……これもお前のお蔭なのだよ」
「まあまあ何故でござりましょう?」
「お前が俺と一緒になって、俺を幸福にしてくれたからだ」
「もう愛しても居りませぬので?」
「愛するものはお前ばかりだ」
「いいえ、そうしてこの秋秀も」
こう云ってお紅は笑《え》ましそうに、嬰兒の方へ顔を向けた。
「可愛い坊や、可愛い坊や……妾は幸福でござりますよ」
「自分で幸福でいる時には、他人の幸福も願うものだよ。……萩野が幸福であるように」
「可愛らしい香具師さんが居りますのね」
こう云ってお紅が足を止めたので、秋安もふと足を止めた。
そうして萩野へ眼をやったが、萩野はその前から、深く俯向いていたがために、秋安には顔が見られなかった。そうして姿は香具師風である。萩野であることが何で判《わか》ろう。で、ゆるゆると行き過ぎた。
が、お紅は気安そうに、二人の香具師の前まで行った。
「お怒りなすっては困ります。私達は幸福なのでございます。どうぞ貴郎《あなた》方ご夫婦にも、祝っていただきたいと存じます。粗末な物ではござりますが、私達の志でござります。お受け取りなすって下さいまし」
云い云いお紅は簪を抜いたが、萩野の前へそっ[#「そっ」に傍点]と出した。
「はい、有難う存じます」
顔を上げた萩野の眼の中に、あふれる涙が光っていた。
「お美しい貴郎様のお志、いつ迄も忘れはいたしませぬ。……幸福におくらし遊ばすよう、おいのり致すでござりましょう」
「貴郎方ご夫婦もお幸
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