この部屋は静かである。燈火《ともしび》が金屏《きんぺい》に栄えている。円窓の障子に薄蒼く、月の光が照っている。馨しい焚物の匂いがして、唐金の獅子型の香炉から、細々と煙が立っている。
なやましい春の深夜である。
それに似つかわしい美男、美女が、向かい合って黙って坐っている。
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花ヲ踏ンデ等シク惜シム少年ノ春
燈火ニ背ムイテ共ニ憐ム深夜ノ月
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そういう眺めと云わなければならない。
と、鼓の音がした。秋元の居間から聞こえてくる。つれづれのままに取り出して、秋元が調べているのであろう。曲はまさしく敦盛《あつもり》であった。一つ一つの鼓の音が、春の夜に螺鈿《らでん》でも置くように、鮮やかに都雅に抜けて聞こえる。
秋安とお紅とは顔をあげたが、じっとその耳を傾けた。
と、自ずから眼が合った。
「まずお聞きなさりませ」
眼を見合わせた一瞬間に、秋安はお紅の眼の中に、愛情の籠もっていることを、直覚的に看て取った。
「廻国をするということは、この娘の本当の願いではない。たしかにこの俺を愛している」
そういうことも感ぜられた。
で、秋安は勇気づいて、思う所を述べ出した。
「まずお聞きなさりませ」――秋安は云いつづけた。
「手頼り無いお身の上でござりましょう。では貴女《あなた》には何を措いても、手頼りになるような人物を、お求めにならなければなりません。一人ぼっちでござりましょう。では貴女は、何を措いても、一人ぼっちでないように、お務めなされなければなりません。天下は治まっては居りますものの、洛中にさえ乱暴者はいます。ましてや他国へ出ましたならば、魑魅魍魎《ちみもうりょう》にも劣るような、悪漢どもが居りまして、よくないことをいたしましょう。で、そのような危険な旅へ、好んでお出かけなさるよりも、ここに止まりなさりませ。私ことは土地の豪族で、先祖は北畠親房《きたばたけちかふさ》で、名家の末にござります。家の子郎党も多少はあり、家の生活《くらし》も不自由はせず、父は学究でござりまして、心も寛《ひろ》く親切でもあり、そうして私といたしましても、自分で自分を褒めますのは、ちとおかしくはござりますが、まず悪人ではござりませぬ。名家の遺児の貴方様を、ここでお世話をいたすことぐらいは、私の家といたしましては、何でもないことでござります。そうして
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