たことに、心外さこそは覚えたが、殺したことには満足を感じ、彼女は紐を手繰り寄せ、懐中《ふところ》へ納めて様子をうかがった。
 すると小屋から人が出て来るらしく、主税が急いで立ち去った。
 そこであやめ[#「あやめ」に傍点]も空店から走り出し、主税の後を追っかけた。
 主税が自分を両国広小路の、独楽の定席へ訪ねて来たのは、自分が主税の袖へ投げ込んだ独楽の、秘密を聞きたかったに相違ないと、そうあやめ[#「あやめ」に傍点]は思ったので、主税に逢ってそれを話そうと、さてこそ主税を追っかけたのであったが、愛を感じている相手だっただけに、突然近付いて話しかけることが、彼女のような女にも面伏せであり、そこでただ彼女は主税の行く方へ、後から従いて行くばかりであった。そのあげく、お茶の水のここへ来た。その結果がこの有様となった。
「山岸様!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は呼んで、膝の上に乗っている主税の顔へ、また自分の顔を近付けて行った。
「大藪の中から紐を繰り出し、お侍さんの一人を絞め殺しましたのは、このあやめ[#「あやめ」に傍点]でございます。……わたしの差し上げた独楽のことから、このような大難にお逢いなされ、あなた様にはさぞこのあやめ[#「あやめ」に傍点]が、憎い女に思われるでございましょうが、あなた様のお為に人間一人を、締め殺しましたことにお免じ下され、どうぞお許しなすって下さいまし」

   教団の祖師

 でも主税は返辞をしなかった。
 ますます衰弱が激しくなり、又神気が朦朧となり、返辞をすることが出来ないからであった。
(このお方死ぬのではあるまいか?)
 こう思うと彼女は悲しかった。
(実家《いえ》を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが、真底から可愛《いと》しいと思われたのは、偶然にお逢いしたこの方ばかり。……それだのにこのお方死なれるのかしら?)
 月の位置が移ったからであろう。梢から射していた月光が、円い巨大な柱のように、あやめ[#「あやめ」に傍点]と主税との二人の体の上へ、蛍草の色に降りて来ていた。その明るい光の輪の中では、産れて間もないらしい細い羽虫が、塵のように飛び交っていた。そうして明るい光の輪の底には、白芙蓉のように蒼白い、彫刻のように端正の、主税の顔が弱々しく、眼を閉じ口を閉じて沈んでいた。
(こうしてはいられない)
 にわかにあやめ[#「あやめ」に傍点]は気がついて思った。
(町へ行って駕籠を雇って、主税様をお屋敷へお送りしなければ)
 そこで、あやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上った。

 この時から半刻《はんとき》ばかり経った時、龕燈の光で往来《みち》を照らしながら、老人と少年と女猿廻しとが、秋山様通りの辺りを通っていた。昨夜《ゆうべ》御用地の林の中にいた、その一組に相違なかった。
 お屋敷町のこの辺りは、この時刻には人通りがなく、犬さえ歩いてはいなかった。武家屋敷の武者窓もとざされていて、戸外《そと》を覗いている人の顔など、一つとして見えてはいなかった。で、左右を海鼠《なまこ》壁によって、高く仕切られているこの往来《とおり》には、真珠色の春の夜の靄と、それを淹《こ》して射している月光とが、しめやかに充ちているばかりであった。
 伊賀袴を穿いた美少年が、手に持っている龕燈で、時々海鼠壁を照らしたりした。と、その都度壁の面へ、薄赤い光の輪が出来た。
 龕燈を持った美少年を先に立て、その後から老人と女猿廻しとが、肩を並べて歩いて行くのであった。
「ねえお爺様……」と女猿廻しは云って、編笠は取って腰へ付け、星のような眼の、高い鼻の、薄くはあるが大型の口の、そういう顔を少し上向け、老人を仰ぎながら審かしそうに続けた。
「なぜたかが[#「たかが」に傍点]一本ばかりの木を、三十年も護《まも》って育てましたの?」
「それはわしにも解《わか》らないのだよ」
 袖無を着、伊賀袴を穿き、自然木の杖を突いた老人は、卯の花のように白い長い髪を、肩の辺りでユサユサ揺りながら、威厳はあるが優しい声で云った。
「なぜたかが[#「たかが」に傍点]一本ばかりのそんな木を、三十年もの間育てたかと、そういう疑いを抱くことよりそんなたかが一本ばかりの木を、迷わず怠らず粗末にせず、三十年もの間護り育てた、そのお方の根気と誠心《まごころ》と、敬虔な心持に感心して、そのお方のお話を承わろうと、そう思った方がいいようだよ」
「ええそれはそうかもしれませんけれど。……で、その木は何の木ですの?」
「榊《さかき》の木だということだが、松であろうと杉であろうと、柳であろうと柏の木であろうと、そんなことはどうでもよいのだよ」
「それでたくさんのいろいろの人が、そのお方の所に伺って、お教えを乞うたと仰有《おっしゃ》る[#「仰有《おっしゃ》る」は底本では「有仰《おっしゃ》る」]のね?」
「そうなのだよ、そうなのだよ。そんなに根気のよい、そんなに誠心の敬虔のお心を持ったお方なら、私達の持っている心の病気や、体の病気を癒して下されて、幸福な身の上にして下さるかもしれないと、悩みを持ったたくさんの人達が、そのお方の所へ伺って、自分たちの悩みを訴えたのだよ」
「するとそのお方がその人達の悩みを、みんな除去《とりさ》って下すったのね」
「解り易い言葉でお説きなされて、心の病気と体の病気を、みんな除去って下されたのだよ」
「それでだんだん信者が増えて、大きな教団になったと仰有る[#「仰有る」は底本では「有仰る」]のね」
「そうなのだよ。そうなのだよ」
「そのお方どんなお方ですの?」
「わしのような老人なのだよ」
「そのお方の名、何て仰有る[#「仰有る」は底本では「有仰る」]の?」
「信者は祖師《そし》様と呼んでいるよ。……でも反対派の人達は『飛加藤《とびかとう》の亜流』だと云っているよ」
「飛加藤? 飛加藤とは?」
「戦国時代に現われた、心の邪な忍術使いでな、衆人《みんな》の前で牛を呑んで見せたり、観世縒で人間や牛馬を作って、それを生かして耕作させたり、一丈の晒布《さらし》に身を変じて、大名屋敷へ忍び込んだり、上杉謙信の寝所へ忍び、大切な宝刀を盗んだりした、始末の悪い人間なのだよ」

   植木師の一隊

「どうしてお偉いお祖師様のことを、飛加藤の亜流などというのでしょう?」
「祖師様のなさるいろいろの業が、忍術使いのまやかし[#「まやかし」に傍点]の業のように、人達の眼に見えるからだよ」
「お爺さん、あなたもそのお祖師様の、信者のお一人なのでごさいますのね」
「ああそうだよ、信者の一人なのだよ」
「お爺さんのお名前、何て仰有《おっしゃ》る[#「仰有《おっしゃ》る」は底本では「有仰《おっしゃ》る」]の?」
「世間の人はわしの事を、飛加藤の亜流だと云っているよ」
「ではもしやお爺さんが、そのお偉いお祖師様では?」
 しかし老人は返辞をしないで、優しい意味の深い微笑をした。
 三人は先へ進んで行った。
 背中の猿は眠ったと見えて、重さが少し加わって来た。それを女猿廻しは揺り上げながら、
(実家《いえ》を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが真底から偉いと思ったお方は、このご老人の他にはない。このお方がきっとお祖師様なのだよ)
(でも妾《わたし》は一生の大事業の、その小口に取りかかったのに、こんなお爺さんと連立って、こんなお話をして歩くなんて、よいことだろうか悪いことだろうか?)
 こうも彼女には思われるのであった。
 三人は先へ進んで行った。
 やがて、四辻の交叉点へ出た。
 それを左の方へ曲がりかけた時、右手の方から一隊の人数が、粛々とこっちへ歩いて来た。
 根元の辺りを菰《こも》で包んだ、松だの柏だの桜だの梅だの、柳だの桧だのの無数の植木を、十台の大八車へ舁《か》き乗せて、それを曳いたりそれを押したり、また左右に付添ったりして、四十人ほどの植木師らしい男が、こっちへ歩いて来るのであった。深夜だから音を立てまいとしてか、車の輪は布で巻かれていた。植木師の風俗も変わっていた。岡山頭巾で顔をつつみ、半纏の代わりに黒の短羽織《みじかばおり》を着、股引の代わりに裁着《たっつけ》を穿《は》き、そうして腰に一本ずつ[#「一本ずつ」は底本では「一本づつ」]、短い刀を差していた。
 車の上の植木はいずれも高価な、立派な品らしく見受けられたが、往来《みち》の左右の海鼠壁よりも高く、月夜の空の方へ葉や枝を延ばし、車の揺れるに従って、それをユサユサと揺する様子は、林が歩いてでも来るようであった。
 その一隊が三人の前まで来た時、手を左右に振りながら、警戒するように『叱《しっ》!』と云った。近寄るなとでも云っているようであった。
「叱!」「叱!」と口々に云った。
 一隊は二人の前を通り過ぎようとした。
 すると、この辺りの屋敷へ呼ばれ、療治を済ませて帰るらしい、一人の按摩が向う側の辻から、杖を突きながら現われたが、その一隊の中へうっかりと入った。
「叱《しっ》!」「叱《しっ》!」という例の声が、植木師の声などとは思われないような、威嚇的の調子をもって、一際高く響きわたり、ふいに行列が立ち止まった。
 数人の植木師が走って来て、一所へ集まって囁き合い、ひとしきりそこに混乱が起こった。
 がすぐに混乱は治まって、一隊は粛々と動き出し、林は先へ進んで行った。しかし見れば往来《みち》の一所に、黒い大きな斑点が出来ていた。
 按摩の死骸が転がっているのである。
「お爺さん!」と恐ろしさに女猿廻しは叫んで、老人の腕に縋りついた。それを老人は抱えるようにしたが、
「障《さ》わったからじゃ。……殺されたのじゃ」
「何に、お爺さん、何に障わったから?」
「木へ! そう、一本の木へ!」
 それから老人は歩き出した。三人はしばらく沈黙して歩いた。道がまた辻になっていた。
 それを右へ曲がった時、屋敷勤めの仲間らしい男が、仰向けに道に仆れているのが見えた。
 その男も死んでいた。
「お爺さん、またここにも!」
「障わったからじゃ。殺されたのじゃ」
「お爺さん、お爺さん、あなたのお力で……」
「あの木で殺された人間ばかりは、わしの力でもどうにもならない」
 悪魔の一隊は今も近くの、裏通りあたりを通っていると見え、そうして又も人を殺したと見え、
「叱!」「叱!」という混乱した声が、三人の耳へ聞こえてきた。

   美しき囚人

 同じこの夜のことであった。
 田安家の大奥の一室に、座敷牢が出来ていて、腰元風の若い女と、奥家老の松浦頼母とが、向かい合って坐っていた。
「八重《やえ》、其方《そち》は強情だのう」
 眼袋の出来ている尻下りの眼へ、野獣的の光を湛え、酷薄らしい薄い唇を、なめずるように舌で濡らしながら、頼母はネットリとお八重へ云った。
「将軍家《うえさま》より頂戴した器類を、館より次々に盗み出したことは、潔よく其方も白状したではないか。では何者に頼まれて、そのようなだいそれ[#「だいそれ」に傍点]た悪事をしたか、これもついで[#「ついで」に傍点]に云ってしまうがよい。……其方がどのようにシラを切ったところで、其方一人の考えから、そのような悪事を企てたものとは、誰一人として思うものはないのだからのう」
 云うことは田安家の奥家老として、もっとも千万のことであり、問い方も厳しくはあったけれど、しかし頼母の声や態度の中には、不純な夾雑物《まじりもの》が入っていて、ひどく厭らしさを感じさせるのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、白百合のように垂れていた頸を、物憂そうに重々しく上げた。
「ご家老様へお尋ねいたしまするが、貴郎《あなた》様がもしもお館様より、これこれのことを致して参れと、ご命令をお受け遊ばされて、ご使命を執り行ない居られます途中で、相手の方に見現わされました際、貴郎様にはお館様のお名を、口にお出しなさるでございましょうか?」
「なにを馬鹿な、そのようなこと、わしは云わぬの、決して云わぬ」
「八重も申しはいたしま
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