せぬ」
「…………」
頼母は無言で眉をひそめたが、やがてその眉をのんびりさせると、大胆な美しいお八重の姿を、寧ろ感心したように眺めやった。
まことお八重は美しかった。年は二十二三でもあろうか、細々とした長目の頸は、象牙のように白く滑かであり、重く崩れて落ちそうな程にも、たくさんの髪の島田髷は、鬘かのように艶やかであった。張の強い涼しい眼、三ヶ月形の優しい眉、高くはあるがふっくりとした鼻、それが純粋の処女の気を帯びて、瓜実形の輪郭の顔に、綺麗に調和よく蒔かれている。
小造りの体に纏っている衣裳は、紫の矢飛白《やがすり》の振袖で、帯は立矢の字に結ばれていた。
そういう彼女が牢格子の中の、薄縁を敷いた上に膝を揃えて、端然として坐っている姿は「美しい悲惨」そのものであった。牢の中は薄明るかった。というのは格子の外側に、頼母が提げて来たらしい、網行燈が置いてあって、それから射している幽かな光が、格子の間々から射し入って、明暗を作っているからであった。
「見上げたの、見上げたものじゃ」
ややあってから松浦頼母は、感心したような声で云った。
「武家に仕える女の身として、そういう覚悟は感心なものじゃ。……使命を仕損じた暁には、たとえ殺されても主人の名は云わぬ! なるほどな、感心なものじゃ」
しかし、何となくその云い方には、おだてる[#「おだてる」に傍点]ような所があった。そうしてやはり不純なものが、声の中に含まれていた。
「天晴《あっぱ》れ女丈夫と云ってもよい。……処刑するには惜しい烈婦じゃ。……とはいえ、お館の掟としてはのう」
網行燈の光に照らされ、猪首からかけて右反面が、薄|瑪瑙《めのう》色にパッと明るく、左反面は暗かったが、明るい方の眼をギラリと光らせ、頼母はにわかに怯かすように云った。
「いよいよ白状いたさぬとあれば、明日|其方《そち》を打ち首にせよとの、お館様よりのお沙汰なのだぞよ!」
お八重と女猿廻し
しかしお八重は「覚悟の前です」と、そういってでもいるかのように、髪の毛一筋動かさなかった。ただ柘榴《ざくろ》の蕾のような唇を、心持噛んだばかりであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)と彼女は心ひそかに思った。
お八重は今から二年ほど前に、奥方様附の腰元として、雇い入れられた女なのであるが、今日の昼間奥方様に呼ばれ、奥方様のお部屋へ行った。すると奥方様は彼女に向かい、百までの数字を書いてごらんと云われた。不思議なことと思いながら、云われるままに彼女は書いた。彼女は部屋へ戻ってから、そのようにして数字を書かされた者が、自分一人ではなくて大奥全体の女が、同じように書かされたということを聞いて、少しばかり不安に思った。
すると、間もなく奥方様のお部屋へ、また彼女は呼び出された。行ってみると何とその部屋には、奥家老の松浦頼母がいて、一葉の紙片を突き出した。昨夜女猿廻しのお葉《よう》へ、独楽のなかへ封じ入れて投げて与えた、自分からの隠語の紙片であった。ハ――ッとお八重は溜息を吐いた。
頼母の訊問は烈しかった。
「隠語の文字と其方《そち》の文字、同一のものと思われる、其方この隠語を書いたであろう?」
「書きましてござります」
「お館の外の何者かと謀《はか》り、お館の器類を、数々盗んで持ち出したであろう?」
「お言葉通りにござります」
「これほどの大事を女の身一つで、行なったものとは思われぬ、何者に頼まれてこのようなことをしたか?」
「わたくしの利慾からにござります。決して誰人《どなた》にも頼まれましたのではなく……」
「黙れ、浅はかな、隠し立ていたすか! 尋常な品物であろうことか、代々の将軍家より賜わった、当家にとっては至極の宝物ばかりを、選りに選って盗んだは、単なる女の利慾からではない。頼んだ者があるはずじゃ、何者が頼んだか名を明かせ!」
しかしお八重は口を噤《つぐ》んで、それについては一言も答えなかった。すると頼母は訊問を転じ、
「お館の外の共謀者、何者であるか素性を申せ!」
「申し上げることなりませぬ」
この訊問に対しても、お八重は答えを拒んだのであった。
そこで、お八重は座敷牢へ入れられた。
すると、このような深夜になってから、頼母一人がやって来て、また訊問にとりかかったのであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)
(どうして秘密の隠語の紙が、ご家老様の手へなど渡ったのだろう?)
これが不思議でならなかった。
(女猿廻しのあのお葉が、では頼母様の手に捕らえられたのでは?)
お葉と宣《なの》っている女猿廻しは、お八重にとってはよい加担者であった。でもお葉を加担者に引き入れたのは、全く偶然のことからであった。――ある日お八重はお長屋の方へ、用を達すために何気なく行った。すると女の猿廻しが、お長屋で猿を廻していた。あんまりその様子が可愛かったので、多分の鳥目を猿廻しにくれた。これが縁の始まりで、その後しばしば女猿廻しとお八重は、あちこちのお長屋で逢って話した。その間にお八重はその女猿廻しが、聡明で大胆だということと、再々田安家のお長屋へ来て、猿を廻して稼ぐのは、単なる生活《くらし》のためではなく、何らか田安家そのものに対して、企らむところがあってのことらしいと、そういうことを見て取った。そこでお八重は女猿廻しを呼んで、自分の大事を打ち明けた。
「妾《わたし》は田安家の奥方様附の、腰元には相違ないけれど、その実は田安家に秘蔵されている、ある大切な器物を、盗み出すためにあるお方より、入り込ませられた者なのです。もっともその品を盗み出す以前《まえ》に、その他のいろいろの器物を、盗み出すのではありますけれど。……ついては其方《そなた》妾の加担者となって、盗んだ器物を機会を見て、妾から其方へ渡しますゆえ、其方その品を何処へなりと、秘密に隠しては下さるまいか。……是非にお頼みいたします。事成就の暁には、褒美は何なりと差し上げます」
こう大事を打ち明けた。すると女猿廻しは考えこんだが、
「田安様の品物が盗まれました際、その責任は田安様の、誰人《どなた》に行くのでございましょうか?」と訊いた。
「それはまァ奥家老の松浦様へ」
「松浦へ! おお松浦頼母へ! ……では妾《わたし》あなた様の、加担者になるでございましょう! ……そうしてあの松浦頼母めを、切腹になと召し放しになと!」と女猿廻しは力を籠めて云った。
それでお八重は女猿廻しのお葉が、何かの理由で松浦頼母に、深い怨みを抱いていることを、いち早く見て取ったが、しかしお葉がどういう理由《わけ》から、松浦頼母に怨みを抱くかを、押して訊こうとはしなかった。
二つ目の独楽
とにかくこうして二人の女は、それ以来一味となり、お八重から渡す隠語を手蔓《つて》に、時と場所とを示し合わせ、お八重の盗み出す田安家の器物を、女猿廻しのお葉は受け取り、秘密の場所へ人知れず隠し、今日に及んで来たのであった。
(隠語の紙片が頼母様の手へ入った! ではお葉も頼母様のお手に、引っとらえられたのではあるまいか?)
これがお八重の現在の不安であった。
(いやいや決してそんなことはない!)
お八重はやがて打ち消した。
(でも隠語を認めた紙片が、頼母様のお手へ入った以上、それを封じ込めてやったあの独楽が、頼母様のお手へ入ったことは、確かなことといわなければならない!)
これを思うとお八重の胸は、無念と口惜しさに煮えるのであった。
(淀屋の独楽を奪い取れ! これがあの方のご命令だった。……淀屋の独楽を奪い取ろうとして、妾は二年間このお屋敷で、腰元奉公をしていたのだ。そうしてようやく目的を達し、淀屋の独楽を奪い取ったら、すぐに他人に奪い返されてしまった。何と云ったらいいだろう!)
代々の将軍家から田安家へ賜わった、数々の器類を奪ったのも、目的の一つには相違なかったが、真の目的はそれではなくて、淀屋の独楽を奪うことであった。
彼女は田安家へ入り込むや否や、淀屋の独楽の在場所を探した。と、教えられてきた淀屋の独楽と、そっくりの型の独楽を奥方妙子様が、ご秘蔵なされていることを知った。しかし一つだけ不思議なことには、その独楽は淀屋の独楽と違って、いくら廻しても独楽の面へ、一つとして文字を現わさなかった。
「では淀屋の独楽ではないのだろう」と思って、お八重は奪うことを躊躇した。ところが此頃になって老女の一人が「あの独楽は以前には廻す毎に、文字を現わしたものでございますが、いつの間にやらその事がなくなって、この頃ではどのように廻したところで、文字など一字も現われません」と話した。
「ではやはり奥方様お持ちの独楽は、淀屋の独楽に相違ない」とそうお八重は見極めをつけ、とうとうその独楽を昨日奪って、折柄塀外へ来たお葉の手へ、投げて素早く渡したのであった。今夜裏門にて――と隠語に書いたのは、望みの品物を奪い取ったのだから、もうこの屋敷にいる必要はない。でお葉に裏門まで来て貰って、一緒にこの屋敷から逃げ出そうと思い、さてこそそのように書いたのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、今までじっと俯向いて、膝頭を見詰めていた眼を上げて、頼母の顔を正視した。
「隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より?」
「あれか」
すると松浦頼母は複雑の顔へ一瞬間、冷笑らしいものを漂わせたが、
「其方《そち》の恋人山岸主税が、わしの手にまで渡してくれたのよ!」
「え――ッ、まア! いえいえそんな!」
物に動じなかったお八重の顔が、見る見る蒼褪め眼が血走った。
お八重の受難
そういうお八重を松浦頼母は、嘲笑いの眼で見詰めたが、
「去年の秋御殿で催された、観楓の酒宴以来|其方《そち》と主税《ちから》とが、恋仲になったということは、わしにおいては存じて居った。が、お八重其方も存じおるはずだが、其方を恋して其方という者を、主税より先に我物にしようと、懇望したものは誰だったかのう?」
頼母はお八重を嘗めるように見たが、
「わしであったはずじゃ、頼母であったはずじゃ」
云い云い頼母は老いても衰えない、盛り上っている肉太の膝を、お八重の方へニジリ[#「ニジリ」は底本では「ニヂリ」]寄せた。
お八重は背後《うしろ》へ体を退《ず》らせたが、しかしその瞬間去年の秋の、観楓の酒宴での出来事を、幻のように思い出した。
その日、夜になって座が乱れた。お八重は酒に酔わされたので、醒まそうと思って庭へ出た。と、突然背後から、彼女に触れようとする者があった。お八重は驚いて振り返ってみると、意外にも奥家老の松浦頼母で、
「其方《そち》がお館へ上った日以来、わしは其方に執心だったのじゃ」と云った。
すると、そこへちょうど折よく、これも酒の酔いを醒まそうとして、通り掛かった山岸主税が、
「や、これはご家老様にはお八重殿にご酔興なそうな。アッ、ハッ、ハッ、お気の毒千万、そのお八重殿とわたくしめとは、夫婦約束いたした仲でござる。わたくしめの許婚《いいなずけ》をお取りなさるは殺生、まずまずお許し下されませ」と冗談にまぎらせて仲を距て、お八重の危難を救ってくれた。
ところがこれが縁となって、お八重と主税とは恋仲となり、肉体《からだ》こそ未だに純潔ではあれ、末は必ず夫婦になろうと約束を結んだのであった。しかるに一方松浦頼母も、お八重への恋慕を捨ようとはしないで、絶えずお八重を口説いたことであった。そうして今お八重にとって、命の瀬戸際というこの時になって、……
「お八重」と頼母は唆かすように云った。
「今日の昼主税めわしの所へ参り、『私こと昨夜お館附近を、見廻り警戒いたしおりましたところ、怪しい女猿廻しめが、ご用地附近におりましたので、引っとらえようといたしましたところその猿廻しめは逃げましたが、独楽を落としましてござります。調べましたところ独楽に細工あって、隠語を認めましたこのような紙片が、封じ込めありましてございます。隠語を解けば――コンヤウラモンニテ、と。……思うにこれはお館の中に、女猿廻し
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