人々はポツポツと戻って来た。
 と、不意に人々の間から、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
 老女と一緒に来た腰元の中の一人、萩枝《はぎえ》という二十一の小肥りの女が、両手で空を掴みながら、クルリと体を回転し、そのまま地上へ転がったのである。
 狼狽して人々は飛び退いた。
 その人の垣に囲まれたまま、萩枝は地上を転がり廻り、胸を掻き髪を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]り、
「苦しい! 麻痺《しびれ》る! ……助けて助けて!」と嗄《しゃが》れた声で叫んだが、見る見る顔から血の気が消え、やがて延びて動かなくなった。

 この日の宵のことであった。山岸|主税《ちから》は両国広小路の、例の曲独楽の定席小屋の、裏木戸口に佇んで、太夫元の勘兵衛という四十五六の男と、当惑しながら話していた。
「ではもうあやめ[#「あやめ」に傍点]は居ないというのか」
「へい、この小屋にはおりません」
「つまり席を退いたのだな」
「と云うことになりましょうね」
 どうにも云うことが曖昧であった。
 それに何とこの辺りは、暗くそうして寂しいことか。
 裏木戸に面した反対側は、小借長屋らしく思われたが、どうやら空店になっているらしく、ビッシリ雨戸がとざされていて、火影一筋洩れて来なかった。
 洞窟の穴かのように、長方形に空いている木戸口にも、燈《ひ》というものは点《つ》いていなかった。しかし、遥かの小屋の奥から、ぼんやり蝋燭の光が射して来ていて、眼の窪んだ、鼻の尖った、頬骨の立った悪相の持主の、勘兵衛という男を厭らしい存在として、照らし出してはいるのであった。
「昨日《きのう》まではこの小屋に出ていたはずだが、いつあやめ[#「あやめ」に傍点]は席を退いたのだ?」
 こう主税は又訊いた。
「退いたとも何とも申しちゃアいません。ただ彼女《あいつ》今日はいないので」
「一体あやめ[#「あやめ」に傍点]はどこに住んでいるのだ?」
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]は……そいつはどうも……それより一体|貴郎《あなた》様は、どうして何のために彼女を訪ねて、わざわざおいでなすったんで?」
 かえって怪訝そうに勘兵衛は訊いた。

   第三の犠牲

 主税《ちから》があやめ[#「あやめ」に傍点]を訪ねて来たのは、何と思って自分へ独楽をくれたのか? どうして猿廻しなどに身をやつしていたのか? その事情を訊こうと思ったからであった。
 昼の中に来るのが至当なのであったが、昼の中彼は屋敷へ籠って――お館へは病気を云い立てて休み――例の独楽を廻しに廻し、現われて来る文字を寄せ集め、秘密を知るべく努力した。
 しかし、結果は徒労《むだ》だった。
 というのは、その後に現われて来た文字は「に有りて」という四つの文字と「飛加藤の亜流」という訳のわからない、六つの文字に過ぎなかったからで……
 そこで彼は夕方駕籠を飛ばせて、ここへ訪ねて来たのであった。そうしてあやめ[#「あやめ」に傍点]に逢いたいと言った。
 すると勘兵衛という男が出て来て、極めて曖昧な言葉と態度で、あやめ[#「あやめ」に傍点]は居ないというのである。
「少し尋ねたい仔細《こと》があってな」
 主税はこっちでも曖昧味を現わし、
「それで訪ねて参ったのだが、居ないとあっては止むを得ぬの。どれ、それでは帰るとしようか」
「ま、旦那様ちょっとお待ちなすって」
 勘兵衛の方が周章《あわて》て止めた。
「実は彼女《あいつ》がいなくなったのであっし[#「あっし」に傍点]はすっかり参っていますので。何せ金箱でございますからな。へい大事な太夫なので。……それであっし[#「あっし」に傍点]も小屋の者も、大騒ぎをして探していますので」
「しかし宿所《やど》には居るのだろう?」
「それが貴郎様、居ないんで」
「宿所にもいない、ふうんそうか。一体宿所はどこなのだ?」
「へい、宿所は……さあ宿所は……神田辺りなのでございますが……それはどうでもよいとして、宿所にもいず小屋へも来ない。昨夜《ゆうべ》ポカンと消えてしまったんで」
「ふうん、昨夜消えてしまった。……猿廻しに身をやつし[#「やつし」に傍点]て消えてしまったのではあるまいかな」
「え、何だって? 猿廻しにだって?」
 勘兵衛はあっけにとられたように、
「旦那、そりゃア一体何のことで?」
(しまった)と主税は後悔した。
(云わでものことを口走ってしまった)
 主税は口を噤んで横をむいた。
「こいつア変だ! 変ですねえ旦那! ……旦那何か知ってますね!」と勘兵衛はにわかにかさ[#「かさ」に傍点]にかかり、
「あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔《あま》が消えてしまった途端に、これまで縁のなかったお侍さんが、ヒョッコリ訪ねておいでなすって、根掘り葉掘りあやめ[#「あやめ」に傍点]のことをお訊きになる。その後で猿廻しに身をやつして[#「やつして」に傍点]なんて、変なことを仰せになる! ……旦那、お前さんあの阿魔を、あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔をおびき[#「おびき」に傍点]出し……」
「黙れ!」と主税は一喝した。
「黙っておればこやつ無礼! 拙者を誘拐《かどわか》しか何かのように……」
「おお誘拐しだとも、誘拐しでなくて何だ! あやめ[#「あやめ」に傍点]の阿魔を誘拐して、彼女の持っている秘密を奪い、一儲けしようとするのだろう! ……が、そうならお気の毒だ! 彼女はそんな秘密などより、荏原《えばら》屋敷の奴原を……」
「荏原屋敷だと※[#感嘆符疑問符、1−8−78] おおその荏原屋敷とは……」
「そうれ、そうれ、そうれどうだ! 荏原屋敷まで知っている汝《おのれ》、どうでも平記帳面の侍じゃアねえ! 食わせ者だア――食わせものだア――ッ……わーッ」
 と、これはどうしたことだろう。にわかに勘兵衛は悲鳴を上げ、両手で咽喉の辺りを掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]ったかと思うと、前のめり[#「のめり」に傍点]にバッタリと地へ倒れた。
「どうした勘兵衛!」と主税は驚き、介抱しようとして屈み込んだ。
 その主税の眼の前の地上を、小蛇らしいものが一蜒りしたが、空店《あきだな》の雨戸の隙の方へ消えた。
 息絶えたらしい勘兵衛の体は、もう延びたまま動かなかった。
「どうしたどうした!」
「勘兵衛の声だったぞ」と小屋の中から人声がし、幾人かの人間がドヤドヤと、木戸口の方へ来るらしかった。
(巻添えを食ってはたまらない)
 こう思った主税が身を飜えして、この露路から走り出したのは、それから間もなくのことであった。

   白刃に囲まれて

 この時代《ころ》のお茶の水といえば、樹木と藪地と渓谷《たに》と川とで、形成《かたちづく》られた別天地で、都会の中の森林地帯であった。
 昼間こそ人々は往《ゆ》き来したが、夜になるとほとんどだれも通らず、ただひたすら先を急いで迂回することをいとう人ばかりが、恐々《こわごわ》ながらもこの境地《とち》を、走るようにしてとおるばかりであった。
 そのお茶の水の森林地帯へ、山岸主税が通りかかったのは、亥《い》の刻を過ごした頃であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]が行方不明となった、勘兵衛という太夫元が、何者かに頓死させられた、この二つの意外な事件によって、さすがの彼も心を痛め、この時まであてなく江戸の市中を、さまよい歩いていたのであった。
(荏原屋敷とは何だろう?)
 このことが彼の気になっていた。
 独楽の隠語の中にもこの字があった。勘兵衛という男もこの言葉を云った。そうしてあやめ[#「あやめ」に傍点]という曲独楽使いも、この屋敷に関係があるらしい。
(荏原郡《えばらごおり》の馬込の郷に、そういう屋敷があるということは、以前チラリと耳にはしたが)
 しかし、それとて非常に古い屋敷――大昔から一貫した正しい血統を伝えたところの、珍らしい旧家だということばかりを、人づてに聞いたばかりであった。
(がしかしこうなってみれば、その屋敷の何物かを調べてみよう)
 主税はそんなように考えた。
 独楽のことも勿論気にかかっていた。
 ――どれほどあの独楽を廻してみたところで、これまでに現われた隠語以外に、新しい隠語が現われそうにもない。そうしてこれまでの隠語だけでは、何の秘密をも知ることは出来ない。どうやらこれは隠語を隠した独楽は、あれ以外にも幾個《いくつ》かあるらしく、それらの独楽を悉皆《みんな》集めて全部《すっかり》の隠語を知った時、はじめて秘密が解けるものらしい。
(とすると大変な仕事だわい)
 そう思わざるを得なかった。
 しかし何より主税の心を、憂鬱に抑えているものは、頻々とあるお館の盗難と、猿廻しに変装したあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、密接の関係にあることで、今日あやめを小屋へ訪ねたのも、その真相を探ろうためなのであった。
(猿廻しから得た独楽と隠語と、お館の中に内通者ありという、自分の意見とを松浦殿へ、今朝方早く差し上げたが、その結果女の内通者が、お館の中で見付かったかしら?)
 考えながら主税は歩いて行った。
 腐ちた大木が倒れていたり、水溜りに月光が映っていたり、藪の陰から狐らしい獣が、突然走り出て道を遮ったりした。
 不意に女の声が聞こえた。
「あぶない! 気をおつけ! 背後《うしろ》から!」
 瞬間に主税は地へ仆れた。
「あッ」
 その主税の体へ躓《つまず》[#「《つまず》」は底本では「《つまづ》」]き、背後から切り込んで来た一人の武士が、こう叫んで主税のからだ越しにドッとばかりに向こうへ仆れた。
 疾風迅雷も物かわと、二人目の武士が左横から、なお仆れている主税を目掛け、拝み討ちに切り付けた。
「わ、わ、わ、わ――ッ」とその武士は喚いた。脇腹から血を吹き出しているのが、木洩れの月光に黒く見えた。
 その武士が足を空ざまにして、丸太ん棒のように仆れた時には、とうに飛び起き、飛び起きざまに引き抜き、引き抜いた瞬間には敵を斬っていた、小野派一刀流では無双の使い手の、山岸主税は返り血を浴びずに、そこに聳えていた大楠木の幹を、背負うようにして立っていた。
 が、それにしても何と大勢の武士に、主税は取巻かれていることか!
 数間を距てて十数人の人影が、抜身をギラギラ光らせながら、静まり返っているではないか。
(何物だろう?)と主税は思った。
 しかし、問さえ発っせられなかった。
 前から二人、左右から一人ずつ、四人の武士が殺到して来た。
(死中活!)
 主税は躍り出で、前の一人の真向を割り、返す刀で右から来た一人の、肩を胸まで斬り下げた。
 とは云え、その次の瞬間には、主税は二本の白刃の下に、身をさらさざるを得なかった。
 しかし、辛うじてひとりの武士の、真向へ来た刀を巻き落とした。
 でも、もう一人の武士の刀を、左肩に受けなければならなかった。
(やられた!)
 しかし何たる奇跡か! その武士は刀をポタリと落とし、その手が首の辺りを掻きむしり、前のめりにドッと地上へ倒れた。
 勘兵衛の死に態と同じであった。
 その時であった側《そば》の大藪の陰から、女の声が聞こえてきた。
「助太刀してあげてよ、ね、助太刀して!」
「参るぞーッ」という怒りの大音が、その時女の声を蔽うたが、一人の武士が大鷲さながらに、主税を目掛けて襲いかかった。
 悄然たる太刀音がし、二本の刀が鍔迫り合いとなり、交叉された二本の白刃が、粘りをもって右に左に前に後ろに捻じ合った。
 主税は刀の間から、相手の顔を凝視した。
 両国橋で逢った浪人武士であった。

   解けた独楽の秘密

「やあ汝《おのれ》は!」と主税は叫んだ。
「両国橋で逢った浪人者!」
「そうよ」と浪人も即座に答えた。
「貴殿が手に入れた淀屋の独楽を、譲り受けようと掛け合った者よ。……隠すにもあたらぬ宣《なの》ってやろう、浪速《なにわ》の浪人|飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》! ……さてその時拙者は申した、貴殿の命を殺《あや》めても、淀屋の独楽を拙者が取ると! ……その期が今こそめぐって来たのじゃ!」
「淀
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