、どうしてくれるか!)
突き進んで躍りかかろうとした。しかし足が言うことをきかなかった。
と云って足が麻痺したのではなく、眼の前にある光景が、変に異様であり妖しくもあり、厳かでさえあることによって、彼の心が妙に臆《おく》れ、進むことが出来なくなったのである。
(しばらく様子を見てやろう)
木の根元にうずくまり、息を詰めて窺った。
老人は何やら云っているようであった。
白い顎鬚が上下に動き、そのつど肩まで垂れている髪が、これは左右に揺れるのが見えた。
どうやら老人は猿廻しに向かって、熱心に話しているらしかった。
しかし距離が遠かったので、声は聞こえてこなかった。
主税はそれがもどかしかったので、地を這いながら先へ進み、腐ちた大木の倒れている陰へ、体を伏せて聞耳を立てた。
「……大丈夫じゃ、心配おしでない、猿めの打撲傷《うちみ》など直ぐにも癒る」
こういう老人の声が聞こえ、
「躄者《いざり》さえ立つことが出来るのじゃからのう。――もう打撲傷は癒っているかもしれない。……これこれ小猿よ立ってごらん」
言葉に連れて地に倒れていた猿が、毬のように飛び上り、宙で二三度|翻筋斗《もんどり》を打ったが、やがて地に坐り手を膝へ置いた。
「ね、ごらん」と老人は云った。
「あの通りじゃ、すっかり癒った。……いや誠心《まごころ》で祈りさえしたら、一本の稲から無数の穂が出て、花を咲かせて実りさえするよ」
その時猿廻しは編笠を脱いで、恭しく辞儀《おじぎ》をした。
その猿廻しの顔を見て、主税は思わず、
「あッ」と叫んだ。それは女であるからであった。しかも両国の曲独楽使いの、女太夫のあやめ[#「あやめ」に傍点]であった。
隠語を解く
曲独楽使いの浪速《なにわ》あやめ[#「あやめ」に傍点]が、女猿廻しになっている! これは山岸|主税《ちから》にとっては、全く驚異といわざるを得なかった。
しかも同一のその女が、自分へ二つの独楽をくれた。
そうしてその独楽には二つながら、秘密らしいものがからまっている。
(よし)と主税は決心した。
(女猿廻しを引っとらえ、秘密の内容を問いただしてやろう)
そこで、主税は立ち上った。
するとその瞬間に龕燈が消えて、いままで明るかった反動として、四辺《あたり》がすっかり闇となった。
主税の眼が闇に慣れて、木洩れの月光だけで林の中のようすが、朧気ながらも見えるようになった時には、女猿廻しの姿も、美童の姿も猿の姿も、眼前から消えてなくなっていた。
その翌日のことである、田安家の奥家老|松浦頼母《まつうらたのも》は、中納言家のご前へ出で、
「お館様これを」とこう言上して、一葉の紙片を差し出した。
泉水に水が落ちていて、その背後《うしろ》に築山があり、築山をめぐって桜の老樹が、花を渦高く咲かせており、その下を将軍家より頂戴したところの、丹頂の鶴が徘徊している――そういう中庭の風景を、脇息に倚って眺めていた田安中納言はその紙片を、無言で取上げ熟視された。
一杯に数字が書いてあった。
「これは何だ?」と、中納言家は訊かれた。
「隠語とのことにござります」
「…………」
「昨夜近習の山岸主税こと、怪しき女猿廻しを、ご用地にて発見いたし、取り抑えようといたしましたところ、女猿廻しには逃げられましたが、その者独楽を落としました由にて、とりあえず独楽を調べましたところ、この紙片が籠められておりましたとか……これがその独楽にござります」
頼母は懐中から独楽を出した。
中納言家はそれを手にとられたが、
「これは奥の秘蔵の独楽じゃ」
「奥方様ご秘蔵の独楽?」
「うん、わしには見覚えがある、これは奥の秘蔵の独楽じゃ。……それにしても怪しい猿廻しとは?」
「近頃、ひんぴんたるお館の盗難、それにどうやら関係あるらしく……」
「隠語の意味わかっておるかな?」
「主税|儀《こと》解きましてござります」
「最初に『三十三』と記してあるが?」
「『こ』という意味の由にござります」
「『こ』という意味? どうしてそうなる?」
「いろは四十八文字の三十三番目が『こ』の字にあたるからと申しますことで」
「ははアなるほど」
「山岸主税申しますには、おおよそ簡単の隠語の種本は、いろは四十八文字にござりますそうで、それを上より数えたり、又、下より数えたりしまして、隠語としますそうにござります」
「すると二番目に『四十八』とあるが、これは『ん』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「三番目に『二十九』とあるが、……これは『や』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「その次にあるは『二十四』だから、言うまでもなく『う』の字の隠語、その次の『二十二』は『ら』の字の隠語、その次の『四十五』は『も』の字の隠語、『四十八』は『ん』の字の隠語、『四』は『に』の字の隠語、『三十五』は『て』の字の隠語。……これで全部終えたことになるが、この全部を寄せ集めれば……」
「こんやうらもんにて――となりまする」
「今夜裏門にて――いかにもそうなる」
「事件が昨夜のことにござりますれば、今夜とあるは昨夜のこと。で、昨夜館の裏門にて、何事かありましたと解釈すべきで……」
「なるほどな。……で、何事が?」
「山岸主税の申しまするには、お館の中に居る女の内通者が、外界《そと》の賊と気脈を通じ、昨夜裏門にて密会し……」
「館の中に居る女の内通者とは?」
「その数字の書体、女文字とのことで」
「うむ、そうらしい、わしもそう見た」
「それにただ今うかがいますれば、その独楽は奥方様の御秘蔵の品とか……さすれば奥方様の腰元あたりに、賊との内通者がありまして、そのような隠語を認めまして、その独楽の中へ密封し、ひそかに門外へ投げ出し、その外界の同類の手に渡し、昨夜両人裏門にて逢い……」
「なるほど」
「内通者がお館より掠めました品を、その同類の手に渡したか……あるいは今夜の悪事などにつき、ひそかに手筈を定めましたか……」
「うむ」と云うと中納言家には、眉の辺りに憂色を浮かべ、眼を半眼にして考え込まれた。
腰元の死
「頼母」
ややあって中納言家は口を開いた。
「これはいかにもお前の言う通り、館の中に内通者があるらしい。そうでなくてあのような品物ばかりが、次々に奪われるはずはない。……ところで頼母、盗まれた品だが、あれらの品を其方《そち》はどう思うな?」
「お大切の品物と存じまする」
「大切の由緒存じおるか?」
「…………」
「盗まれた品のことごとくは、柳営より下されたものなのじゃ」
「…………」
「我家のご先祖|宗武《むねたけ》卿が、お父上にしてその時の将軍家《うえさま》、すなわち八代の吉宗《よしむね》将軍家から、家宝にせよと賜わった利休の茶杓子をはじめとし、従来盗まれた品々といえば、その後代々の我家の主人が、代々の将軍家から賜わったものばかりじゃ」
「…………」
「それでわしはいたく心配しておるのじゃ。将軍家より賜わった品であるが故に、いつなんどき柳営からお沙汰があって、上覧の旨仰せらるるやもしれぬ。その時ないとは言われない。盗まれたなどと申したら……」
「お家の瑕瑾《きず》にござります」
「それも一品ででもあろうことか、幾品となく盗まれたなどとあっては……」
「家事不取り締りとして重いお咎め……」
「拝領の品であるが故に、他に遣わしたとは言われない」
「御意の通りにござります」
「頼母!」と沈痛の中納言家は言われた。
「この盗難の背後には、我家を呪い我家を滅ぼそうとする、[#「滅ぼそうとする、」は底本では「滅ぼそうとする。」]恐ろしい陰謀《たくらみ》があるらしいぞ!」
「お館様!」と頼母も顔色を変え、五十を過ごした白い鬢の辺りを、神経質的に震わせた。
中納言家はこの時四十歳であったが、宗武卿以来聡明の血が伝わり、代々英主を出したが、当中納言家もその選に漏れず、聡明にして闊達であり、それが風貌にも現われていて鳳眼隆鼻高雅であった。
でも今は高雅のその顔に、苦悶の色があらわれていた。
「とにかく、内通者を至急見現わさねばならぬ」
「御意で。しかしいかがいたしまして?」
「これは奥に取り計らわせよう」
「奥方様にでござりまするか」
「うむ」と中納言家が言われた時、庭の築山の背後から女の悲鳴らしい声が聞こえ、つづいてけたたましい叫び声が聞こえ、すぐに庭番らしい小侍が、こなたへ走って来る姿が見えた。
「ご免」と頼母は一揖してから、ツカツカと縁側へ出て行ったが、
「これ源兵衛何事じゃ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と庭番の小侍へ声をかけた。
小侍は走り寄るなり、地面へ坐り手をつかえたが、
「お腰元楓殿が築山の背後にて、頓死いたしましてござります」
「ナニ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
頼母は胸を反らせ、
「楓殿が頓死※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 頓死とは?」
「奥方様のお吩咐《いいつけ》とかで、三人の腰元衆お庭へ出てまいられ、桜の花お手折り遊ばされ、お引き上げなさろうとされました際、その中の楓殿不意に苦悶され、そのまま卒倒なされましたが、もうその時には呼吸《いき》がなく……」
「お館様!」と頼母は振り返った。
「履物を出せ、行ってみよう」
中納言家には立って来られた。
「それでは余りお軽々しく……」
「よい、行ってみよう、履物を出せ」
庭番の揃えた履物を穿き、中納言家には庭へ出られた。
もちろん頼母は後からつづいた。
庭番の源兵衛に案内され、築山の背後へ行った時には、苦しさに身悶えしたからであろう、髪を乱し、胸をはだけた、美しい十九の腰元楓が、横倒しに倒れて死んでいる側《そば》に、二人の腰元が当惑し恐怖し泣きぬれて立っていた。
第二の犠牲
手折った桜の枝が地に落ちていて、花が屍《しがい》の辺りに散り敷いているのが、憐れさの風情を添えていた。
中納言家は傷《いた》わしそうに、楓《かえで》の死骸を見下ろしていたが、
「玄達《げんたつ》を呼んでともかくも手当てを」
こう頼母に囁くように云い、四辺《あたり》を仔細に見廻したが、ふと審しそうに呟かれた。
「この頃に庭を手入れしたと見えるな」
頼母は庭番の源兵衛へ、奥医師の玄達を連れて来るように吩咐《いいつ》け、それから中納言家へ頭を下げ、
「数日前に庭師を入れまして、樹木の植込み手入れ刈込み、庭石の置き換えなどいたさせました」
「そうらしいの、様子が変わっている」
改めて中納言家は四辺を見廻された。
桜の老樹や若木に雑って、棕櫚だの梅だの松だの楓だの、竹だの青桐だのが、趣深く、布置整然と植込まれてい、その間に珍奇な庭石が、春の陽に面を照らしながら、暖かそうに据えられてあった。
ずっとあなたに椿の林があって、その中に亭が立っていた。
間もなく幾人かの侍臣と共に、奥医師玄達が小走って来た。大奥の腰元や老女たちも、その後から狼狽《あわて》て走って来た。
玄達はすぐに死骸の側《そば》へかがみ仔細に死骸を調べ出した。
「駄目か?」と中納言家は小声で訊かれた。
「全く絶望にござります」
玄達も小声で答えた。
「死因は何か?」
「さあその儀――いまだ不明にござりまする。……腹中の食物など調べましたなら……」
「では、外傷らしいものはないのだな」
「はい、いささかも……外傷らしいものは」
「ともかくも死骸を奥へ運んで、外科医宗沢とも相談し、是非死因を確かめるよう」
「かしこまりましてござります」
やがて楓の死骸は侍臣たちによって、館の方へ運ばれた。
「不思議だのう」と呟きながら、なお中納言家は佇んでおられた。
その間には侍臣や腰元たちは、楓を殺した敵らしいものが、どこかその辺りに隠れていないかと、それを探そうとでもするかのように、木立の間や岩の陰や、椿の林などへ分け入った。
広いといっても庭であり、植込みが繁っているといっても、たかが庭の植込みであって、怪しい者など隠れていようものなら、すぐにも発見されなければならなかった。
何者も隠れていなかったらしく、
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