た一匹の小猿が、淀屋の独楽を両手に持ち、胸の辺りに支えて覗いているではないか。
 頼母はクラクラと眼が廻った。
「…………」
 無言で背後から躍りかかった。
 その頼母の袖の下をくぐり、藤八猿は独楽を握ったまま、素早く廊下へ飛び出した。
「はーッ」と不安の溜息を吐き、後を追って頼母も廊下へ出た。数間の先を猿は走っている。
「はーッ」
 頼母はよろめきながら追った。猿は庭へ飛び下りた。頼母も庭へ飛び下りたが、猿の姿は見えなかった。
 頼母はベタベタと地へ坐った。
「取られた! ……独楽を! ……淀屋の独楽を! ……猿に! ……はーッ……猿に! 猿に!」

   恋のわび住居

 それから一月の日が経った。桜も散り連翹《れんぎょう》も散り、四辺《あたり》は新緑の候となった。
 荏原郡《えばらごおり》馬込の里の、農家の離家《はなれ》に主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが、夫婦のようにして暮らしていた。
 表面《おもてむき》は夫婦と云ってはいるが、体は他人の間柄であった。
 三間ほどある部屋のその一つ、夕陽の射している西向きの部屋に、三味線を膝へ抱え上げ、あやめ[#「あやめ」に傍点]が一人で坐っていた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]逢うことのまれまれなれば恋ぞかし
いつも逢うては何の恋ぞも
[#ここで字下げ終わり]
 爪びきに合わせてあやめ[#「あやめ」に傍点]は唄い出した。隆達節《りゅうたつぶし》の流れを汲み、天保末年に流行した、新隆達の小唄なのである。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]の声には艶があった。よく慣らされている咽喉から出て、その声は細かい節となり、悩ましい初夏の午さがりを、いよいよ悩ましいものにした。
 少し汗ばんでいる額の辺りへ、ばらりとほつれた前髪をかけ、薄紫の半襟から脱いた[#「脱いた」はママ]、白蝋のような頸を前に傾げ、潤いを持たせた切長の眼を、半眼にうっとりと見ひらいて、あやめ[#「あやめ」に傍点]は唄っているのであった。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]やるせなや帆かけて通る船さえも
都鳥|番《つが》いは水脈《みお》にせかれたり
[#ここで字下げ終わり]
 不意にあやめ[#「あやめ」に傍点]は溜息をし、だるそうに三味線を膝の上へ置くと、襖ごしに隣室へ声をかけた。
「主税さま、何をしておいで?」
 そとから舞い込んで来たらしい、雌雄《めお》の黄蝶がもつれ合いながら、襖へ時々羽を触れては、幽かな音を立てていた。
「例によりまして例の如くで」
 主税の声が襖のむこうから、物憂そうに聞こえてきた。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]殿にはご機嫌そうな、三味線を弾いて小唄をうとうて」
「そう覚しめして?」と眉と眉との間へ、縦皺を二筋深く引き、
「昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう」
「…………」
 主税からの返事は聞こえてこなかった。
「ねえ主税様」と又あやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「心に悶えがあったればこそ、座頭の沢市《さわいち》は三味線を弾いて、小唄をうたったじゃアありませんか」
 隣室からは返事がなく、幽かな空咳が聞こえてきた。
 不平そうにあやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上ったが、開けられてある障子の間から、縁側や裏庭が見え、卯の花が雪のように咲いている、垣根を越して麦や野菜の、広々とした青い畑が、数十町も展開《ひら》けて見えた。
(何だろう? 人だかりがしているよ)
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は縁側へ出て行って、畑の中の野道の上に、十数人の男女が集まっているのへ、不思議そうに視線を投げた。
 しかし距離が大分遠かったので、野道が白地の帯のように見え、人の姿が蟻のように見えるだけであった。
 そこであやめ[#「あやめ」に傍点]は眼を移し、はるかあなたの野の涯に、起伏している小山や谷を背に、林のような木立に囲まれ、宏大な屋敷の立っているのを見た。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]にとっては実家であり、不思議と怪奇と神秘と伝説とで、有名な荏原屋敷であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]はしばらくその荏原屋敷を、憧憬《あこがれ》と憎悪《にくしみ》とのいりまじった眼で、まじろぎもせず眺めていたが、野道の上の人だかりが、にわかに動揺を起こしたので、慌ててその方へ眼をやった。

   怪老人の魔法

 野道の上に立っているのは、例の「飛加藤《とびかとう》の亜流」と呼ばれた、白髪自髯の老人と、昼も点っている龕燈を持った珠玉のように美しい少年とであり、百姓、子守娘、旅人、行商人、托鉢僧などがその二人を、面白そうに囲繞《とりま》いていた。
 不思議な事件が行なわれていた。
 美少年が手にした龕燈の光を、地面の一所へ投げかけていた。夕陽が強く照っている地面へ、龕燈の光など投げかけたところで、光の度に相違などないはずなのであるが、でもいくらかは違っていて、やはりそこだけが琥珀色の、微妙な色を呈していた。
 と、その光の圏内へ、棒が一本突き出された。飛加藤の亜流という老人が、自然木の杖を突き出したのである。円味を帯びたその杖の先が、地面の一所を軽く突いて、一つの小さい穴をあけると、その穴の中から薄緑色の芽が、筆の穂先のように現われ出で、見る見るうちにそれが延びて、やがて可愛らしい双葉となった。
「これは変だ」「どうしたというのだ」「こう早く草が延びるとは妙だ」と、たかって[#「たかって」に傍点]いた人々は、恐ろしさのあまり飛退いた。双葉はぐんぐんと生長を続け、蔓が生え、それが延び、蔓の左右から葉が生い出でた。二尺、三尺、一間、三間!
 蔓は三間も延びたのである。
 と、忽然蔓の頂上《てっぺん》へ、笠ほどの大きさの花が咲いた。
「わッ」
 人々は声をあげ、驚きと賞讃と不気味さをもって、夕顔のような白い花を、まぶしそうにふり仰いで眺めた。
「アッハッハッ、幻じゃ! 実在《ほんもの》ではない仮の象《すがた》じゃ!」
 夕顔の花から二間ほど離れ、夕顔の花を仰ぎ見ながら、杖に寄っていた飛加藤の亜流は、払子のような白髯を顫わせながら、皮肉に愉快そうにそう云った。
「何で夕顔がこのように早く、このように大きく育つことがあろう! みんなケレンじゃ、みんな詭計じゃ! わしは不正直が嫌いだから、ほんとうのことを云っておく、みんなこいつはケレンじゃと。……ただし、印度の婆羅門僧は、こういうことをケレンでなく、実行するということだが、わしは一度も見たことがないから、真偽のほどは云い切れない。……しかしじゃ、皆さん、生きとし生けるものは、ことごとく愛情を基としていて、愛情あれば生長するし、愛情がなければ育たない。だからあるいはわしという人間が、特に愛情を強く持って『夕顔の花よお開き』と念じ、それだけの経営をやったなら、夕顔の花はその愛に感じ、多少は早く咲くかもしれない。……いやそれにしても現在《いま》の浮世、愛情の深い真面目の人間が、めっきり少くなったのう。……そこでわしは昼も龕燈をともして、真面目の人間よどこかにいてくれと、歩きまわって探しているのさ。……ここにお立ち合いの皆様方は、みんな真面目のお方らしい。そこでわしはわしの信ずる、人間の道をお話しして……いや待てよ、一人だけ、邪悪《よこしま》の人間がいるようだ。死にかわり生きかわり執念深く、人に禍いをする悪人がいる。――こういう悪人へ道を説いても駄目だ。説かれた道を悪用して、一層人間に禍いする! こういう悪人へ制裁を加え、懲すのがわしの務めなのじゃ……」
 突然高く自然木の杖が、夕顔の花と向かい合い、夕焼の空へかざされた。そうしてその杖が横へ流れた途端、夕顔の蔓の一所が折れ、夕顔の花が人間の顔のように、グッタリと垂れて宙に下った。
 同時に獣の悲鳴のような声が、たかっている人達の間から起こり、すぐに乾いている野道から、パッと塵埃《ほこり》が立ち上った。
 見れば一人の人間が、首根ッ子を両手で抑え、野道の上を、塵埃の中を、転げ廻りノタウッている。
 意外にもそれは勘兵衛であった。二度までも浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]によって、締め殺されたはずの勘兵衛であった。

   怨める美女

 その距離が遠かったので、縁に立って見ているあやめ[#「あやめ」に傍点]の眼には、こういう異変《かわ》った出来事も、人だかりが散ったり寄ったりしていると、そんなようにしか見えなかった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は座敷へ引き返し、間《あい》の襖《ふすま》の前に立ち、そっとその襖を引き開けた。
 山岸主税《やまぎしちから》がこっちへ背を向け、首を垂れて襟足を見せ、端然として坐ってい、その彼の膝のすこし向うの、少し古びた畳の上で、淀屋の独楽が静かに廻っていた。また何か文字でも現われまいかと、今日も熱心に淀屋の独楽を、彼は廻しているのであった。
「あッ!」と主税は思わず叫んだ。
「何をなさる、これは乱暴!」
 でももうその時には主税の体は、背後《うしろ》からあやめの手によって、横倒しに倒されていた。
「悪|巫山戯《ふざけ》もいい加減になされ。人が見ましたら笑うでござろう」
 主税は寝たままで顔を上げて見た。すぐ眼の上にあるものといえば、衣裳を通して窺われる、ふっくりとしたあやめ[#「あやめ」に傍点]の胸と、紫の艶めかしい半襟と、それを抜いて延びている滑らかな咽喉と、俯向けている顔とであった。
 その顔の何と異様なことは! 眼には涙が溜まり唇は震え、頬の色は蒼褪め果て、まるで全体が怨みと悲しみとで、塗り潰されているようであった。そうしてその顔は主税の眼に近く、五寸と離れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。
「情無しのお方! 情知らずのお方!」
 椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、あやめ[#「あやめ」に傍点]の声がそう云った。
「松浦|頼母《たのも》の屋敷を遁れ、ここに共住みいたしてからも、時たま話す話といえば、お八重様とやらいうお腰元衆の噂、そうでなければ淀屋の独楽を、日がな一日お廻しなされて、文字が出るの出ないのと……お側《そば》に居る妾などへは眼もくれず、……ご一緒にこそ住んで居れ、夫婦でもなければ恋人でも……それにいたしても妾の心は、貴郎《あなた》さまにはご存知のはず……一度ぐらいは可愛そうなと。……お思いなすって下さいましても……」
 高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。
「ねえ主税さま」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云って、介《かか》えている手へ力を入れた。
「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心のたけ[#「たけ」に傍点]を、はじめてお打ち明けいたしましたわねえ……そうして今日は心の怨みを! ……でも、この次には、三度目には? ……いえいえ三度目こそは妾の方が、貴郎さまに介抱されて……それこそ本望! 女の本望! ……」
 涙が主税の顔へ落ちた。しかし主税は眼を閉じていた。
(無理はない)と彼は思った。
(たとえば蛇の生殺しのような、そんな境遇に置いているのだからなあ)
 一月前のことである、松浦頼母の屋敷の乱闘で、云いかわしたお八重とは別れ別れとなった。あやめ[#「あやめ」に傍点]の妹だという女猿廻しの、お葉という娘とも別れ別れとなった。殺されたか捕らえられたか、それともうまく遁れることが出来て、どこかに安全に住んでいるか? それさえいまだに不明であった。

   三下悪党

 主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]ばかりは幸福《しあわせ》にも、二人連れ立って遁れることが出来た。
 しかし主税は田安家お長屋へ、帰って行くことは出来なかった。いずれ頼母《たのも》があの夜の中に、田安中納言様へ自分のことを、お八重《やえ》を奪って逃げた不所存者、お館を騒がした狼藉者として、讒誣《ざんぶ》中傷したこ
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