か?)
 無心に蛾の方へ眼を向けたまま、こう主税は思っていた。
 一つの蛾が朱筆の穂のような火先《ほさき》に、素早く嘗められて畳の上へ落ちた。死んだと見えて動かなかった。
(ではやっぱり頼母の意志に従い、淀屋の独楽を渡した上、彼の配下になる以外には、他に手段はないではないか)
 逆流する血の気を顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の辺りへ感じた。しかし努力して冷静になった。
(そうだ独楽を渡した上、あなた様の配下になりますると、偽りの誓言を先ず立てて、ともかくも命を助かろう。その余のことはそれからで出来る)
 何よりも命を保たなければと、主税はそれを思うのであった。
(それにしてもお八重が盗人とは! お館の宝物の数々を盗んだ、その盗人がお八重だとは!)
 これを思うと彼は発狂しそうであった。
(恋人が盗人とは! それも尋常の盗人ではない、お館を破滅に導こうとする、獅子身中の虫のような盗人なのだ!)
 見るに忍びないというような眼付をして、主税は隣室の方へ眼をやった。
 そこにお八重が突っ伏していた。
 こっちの部屋から流れこんで行く燈光《ひかり》で、その部屋は茫《ぼっ》と明るかったが、その底に濃紫《こむらさき》の斑點《しみ》かのように、お八重は突っ伏して泣いていた。
 泣き声は聞こえてはこなかったが、畳の上へ両袖を重ね、その袖の上へ額を押しつけ、片頬を主税の方へわずかに見せ、その白いふっくり[#「ふっくり」に傍点]した艶かしい片頬を、かすかではあるが規則正しく、上下に揺すって動かしているので、しゃくりあげ[#「しゃくりあげ」に傍点]ていることが窺われた。
 それは可憐で痛々しくて、叱られて泣いている子供のような、あどけなさ[#「あどけなさ」に傍点]をさえ感じさせる姿であった。
(あの子が、お八重が、何で盗人であろう!)
 そういう姿を眼に入れるや、主税は猛然とそう思った。
(これは何かの間違いなのだ!)
「お八重殿」と嗄《しわが》れた声で、主税は嘆願でもするように云った。
「真実を……どうぞ、本当のことを……お話し下され、お話し下され! ……盗人などと……嘘でござろうのう」
 狂わしい心持で返事を待った。
 と、お八重は顔を上げた。
 宵闇の中へ夕顔の花が、不意に一輪だけ咲いたように、上げたお八重の顔は蒼白かった。
「山岸様!」と、その顔は云った。
「八重は死にます! ……殺して下さりませ! ……八重は盗人でござります! ……深い事情がありまして……あるお方に頼まれまして……お館の数々のお宝物を、盗んだに相違ござりませぬ。……貴郎《あなた》様のお手にかかりまして、もし死ねましたら八重は本望! ……悲しいは愛想を尽かされますこと! ……死にたい! 殺して下さりませ!」
 花が不意に散ったように、お八重の顔は沈んで袖の上へ消えた。
 泣き声が細い糸のように引かれた。
(そうか、やっぱり盗人なのか)
 主税は首を膝へ垂れた。
(深い事情があるといった。そうだろう! その事情は?)
 泣き声はなおも断続して聞こえた。
(事情によっては許されもするが……)
(あるお方に頼まれたという。何者だろう、頼んだものは?)
「ここを出たい!」と声に出して、主税は思わずそう叫んだ。
 縄を千切って、お八重を助け出して、ここを出たい! ここを出たい!
 無効《むだ》と知りながら又主税は、満身に力を籠めて体を揺すった。
 しかし、縄は切れようともしない。
 時がだんだん経って行く。
 廊下に向いて立てられてある襖が、向う側から開いたのは、それから間もなくのことであった。
(来たな、頼母め!)と主税は睨んだ。
 しかるに、部屋の中へ入って来たのは、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た小猿であった。
「猿!」と主税は思わず叫んだ。
 途端に、小猿は飛びかかって来た。
「こやつ!」
 しかし藤八猿は、主税の体にかかっている縄を、その鋭い歯で食い切り出した。
 どこからともなく口笛の音が、猿の所業を鼓舞するかのように、幽かに幽かに聞こえてきた。

   第二の独楽の文字

 この頃主屋の一室では、覚兵衛や勘兵衛を相手にして、松浦|頼母《たのも》が話していた。四辺《あたり》には杯盤が置き並べてあり、酒肴などがとり散らされていた。
「これに現われて来る文字というものが、まことにもって訳の解《わか》らないものでな、ざっとまアこんな具合なのだ」
 云い云い頼母は握っていた独楽を、畳の上で捻って廻した。幾台か立ててある燭台から、華やかな燈光《ひのひかり》が射し出ていて、この部屋は美しく明るかったが、その燈光《ひかり》に照らされながら、森々と廻っている独楽の面へ、白く文字が現われた。
「屋の財宝は」という五つの文字であった。
「屋の字の上へ淀という字を入れれば、淀屋の財宝はという意味になって、これはまアまア解るにしても、その後に出る文字が解らないのだ」
 頼母はまた手を延ばし独楽を捻った。烈しく廻る独楽の面へは、「代々」という二つの文字と「守護す」という三つの文字と「見る日は南うしろ北」という、九つの文字とが現われた。
「この意味はまったく解らないのう?」
 頼母の声は当惑していた。
「が、主税めの持っている独楽を奪い、それへ現われ出る文字と合わせたら、これらの文字の意味は解るものと思う。どっちみち淀屋の財宝についての、在場所を示したものに相違ないのだからのう」
「その主税めもうそろそろ、決心した頃かと存ぜられます」と飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》が追従笑いをしながら云った。
「誰もが命は惜しいもので。独楽は渡さぬ、配下にもならぬなどと、彼とてよもや申しますまい」
「そりゃアもう云うまでもないことで」とつづいて勘兵衛が合槌を打った。
「ましてや独楽を献上し、お殿様の配下になりさえすれば、お八重様という美しいお腰元と、夫婦になれるというのですからねえ。……が、そうなるとお殿様の方は?」と頼母の方へ厭な眼を向け、
「そうなりまするとお殿様の方は、お八重様をご断念なされるので?」
「またお喋舌《しゃべ》りか」と苦笑いをし、頼母はジロリ[#「ジロリ」は底本では「ヂロリ」]と勘兵衛を睨んだ。
「性懲りもなく又ベラベラと」
「これは、えへ、えッヘッヘッ」
 勘兵衛は亀のように首を縮めた。
 覆面をしていた五人の浪人も、今は頭巾を脱ぎすてて、遥か末座に居並んで、つつましく酒を飲んでいる。
(八重! くれるには惜しい女さ)
 ふと頼母はこう思った。
(が、独楽には換えられぬ。……それに主税というような、敵ながら立派な若い武士を、味方にすることが出来るのなら、女一人ぐらい何の惜しむものか)
 その主税が主謀者となり、鷲見与四郎《すみよしろう》といったような、血の気の多い正義派の武士たちが、どうやら一致団結して、以前から頼母の遣り口に対し――田安お館への施政に対し、反対しようとしていることを、頼母は薄々感付いていた。その主謀者の主税に恩を売り、八重を女房に持たせることによって、味方につけることが出来るのなら、こんな好都合なことはないと、そう頼母は思うのであった。
「誰か参って主税と八重の様子を、それとなく見て参れ」
 浪人たちの方へ頼母は云った。
 二人の浪人が立ち上り、襖《ふすま》をあけて部屋から出た。
「覚兵衛《かくべえ》も勘兵衛《かんべえ》も飲むがよい」
「は」
「頂戴」
「さあさあ飲め」
 賑かに盃が廻り出した。
 たちまち烈しい足音が、廊下の方から聞こえてきたが、出て行った二人の浪人の中、坂本というのが走り帰って来た。
「一大事! 一大事でござりまする……主税め縄を切り八重を助け……部屋を脱け出し庭の方へ! ……本庄殿は主税に斬られ! ……拙者も一太刀、左の肩を!」
 見ればなるほどその浪人の肩から、胸の方へ血が流れ出ていた。
「行け!」と頼母は吼えるように叫び、猛然として躍り上った。
「主税を捕らえろ! 八重を捕らえろ! ……手に余らば斬って捨ろ!」
 一同一斉に部屋を走り出た。

   独楽を奪われる

 八重を小脇に引っ抱え、血に濡れた刀をひっさげて、山岸主税《やまぎしちから》は庭へ出た。
 猿によって縛めの縄を切られ、勇躍してお八重へ走り寄り、その縛めの縄を解いた。すると、そこへ二人の武士が来た。やにわに一人を斬り伏せて、お八重を抱え廊下を走り、雨戸を蹴破り庭へ出た。
 そういう山岸主税であった。
 すぐに月光が二人を照らした。その月光の蒼白いなかに、二つの女の人影があったが、
「山岸様!」
「お八重様!」
 と、同時に叫んで走り寄って来た。
「あッ、そなたはあやめ[#「あやめ」に傍点]殿!」
「まあまああなたはお葉様か!」
 主税とお八重とは驚いて叫んだ。
「事情は後から……今は遁れて! ……こっちへこっちへ!」と叫びながら、あやめ[#「あやめ」に傍点]は門の方へ先頭に立って走った。
 後につづいて一同も走った。開けられてある門を出れば、田安家お屋敷の廓内であった。
 木立をくぐり建物を巡り、廓《くるわ》の外へ出ようものと、男女四人はひた[#「ひた」に傍点]走った。するとその時|背後《うしろ》から、追い迫って来る数人の足音が聞こえた。
(一人二人叩っ斬ってやろう)
 今まで苦しめられた鬱忿と、女たちを逃がしてやる手段としても、そうしなければなるまいと主税は咄嗟に決心した。
「拙者にかまわず三人には、早く土塀を乗り越えて、屋敷より外へお出でなされ。……拙者は彼奴《きゃつ》らを一人二人! ……」
 云いすてると主税は引っ返した。
「それでは妾《わたし》も!」と強気のあやめ[#「あやめ」に傍点]が、主税の後から後を追った。
「お葉や、お前はお八重様を連れて……」
「あい。……それでは。……お八重様!」
 二人の女は先へ走った。主税の正面から浪人の一人が、命知らずにも斬り込んで来た。
「怨、晴らすぞ!」と主税は喚き、片膝折り敷くと思ったが、抜き持っていた刀を横へ払った。斬られた浪人は悲鳴と共に、手から刀を氷柱のように落とし、両手で右の脇腹を抑え、やがて仆れてノタウチ廻った。
 すると、その横をひた[#「ひた」に傍点]走って、あやめ[#「あやめ」に傍点]の方へ突き進む男があった。
「八重! 女郎《めろう》! 逃がしてたまるか!」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]をお八重と間違えたらしく、こう叫んで大手を拡げたのは、太夫元の勘兵衛であった。
「汝《おのれ》は勘兵衛! 生きていたのか!」
 お高祖頭巾をかなぐり捨たあやめ[#「あやめ」に傍点]は、内懐中《うちぶところ》へ片手を差し入れたまま、さすがに驚いて声をかけた。
「わりゃアあやめ[#「あやめ」に傍点]!」と仰天し、勘兵衛も震えながら音をあげた。
「どうしてここへ※[#感嘆符疑問符、1−8−78] こんな夜中に!」――でもようやく元気を取り戻すと、
「生き返ったのよ、業が深いからのう。……あんな生温い締め方では……」
「そうか、それじゃアもう一度」
 あやめ[#「あやめ」に傍点]の手が素早く内懐中から抜かれて、高く頭上へ振りかぶられた。瞬間「わーッ」と勘兵衛は叫び、両手で咽喉を掻きむしった。
「これでもか! これでもか! これでもか」
 ピンと延びている紐を手繰《たぐ》り、勘兵衛を地上に引き摺り引き摺り、
「くたばれ! 殺す! 今度こそ殺す! ……お父様の敵《かたき》! 敵の片割れ!」
「山岸氏参るぞ――ッ」と、もう一人の浪人と、主税の横から迫ったのは、飛田林覚兵衛《とんだばやしかくべえ》であった。が、覚兵衛はお八重らしい女が、もう一人の女と遥か彼方を、木立をくぐって走って行くのを見るや、
「南部氏……主税は……貴殿へお任せ! ……拙者はお八重を!」と浪人へ叫び、二人の女を追っかけた。
 頼母は一旦は走り出たが、部屋へ置いて来た独楽のことが、気にかかってならなかった。
 それで屋敷へ取って返し、廊下を小走り部屋へ入った。
「あッ」
 頼母は立縮んだ。
 赤いちゃんちゃんこを着
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