れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。
「情無しのお方! 情知らずのお方!」
 椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、あやめ[#「あやめ」に傍点]の声がそう云った。
「松浦|頼母《たのも》の屋敷を遁れ、ここに共住みいたしてからも、時たま話す話といえば、お八重様とやらいうお腰元衆の噂、そうでなければ淀屋の独楽を、日がな一日お廻しなされて、文字が出るの出ないのと……お側《そば》に居る妾などへは眼もくれず、……ご一緒にこそ住んで居れ、夫婦でもなければ恋人でも……それにいたしても妾の心は、貴郎《あなた》さまにはご存知のはず……一度ぐらいは可愛そうなと。……お思いなすって下さいましても……」
 高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。
「ねえ主税さま」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云って、介《かか》えている手へ力を入れた。
「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心のたけ[#「たけ」に
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