]が一人で坐っていた。
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※[#歌記号、1−3−28]逢うことのまれまれなれば恋ぞかし
いつも逢うては何の恋ぞも
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爪びきに合わせてあやめ[#「あやめ」に傍点]は唄い出した。隆達節《りゅうたつぶし》の流れを汲み、天保末年に流行した、新隆達の小唄なのである。
あやめ[#「あやめ」に傍点]の声には艶があった。よく慣らされている咽喉から出て、その声は細かい節となり、悩ましい初夏の午さがりを、いよいよ悩ましいものにした。
少し汗ばんでいる額の辺りへ、ばらりとほつれた前髪をかけ、薄紫の半襟から脱いた[#「脱いた」はママ]、白蝋のような頸を前に傾げ、潤いを持たせた切長の眼を、半眼にうっとりと見ひらいて、あやめ[#「あやめ」に傍点]は唄っているのであった。
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※[#歌記号、1−3−28]やるせなや帆かけて通る船さえも
都鳥|番《つが》いは水脈《みお》にせかれたり
[#ここで字下げ終わり]
不意にあやめ[#「あやめ」に傍点]は溜息をし、だるそうに三味線を膝の上へ置くと、襖ごしに隣室へ声をかけた。
「主税さま、何をしておいで?」
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