られない)
にわかにあやめ[#「あやめ」に傍点]は気がついて思った。
(町へ行って駕籠を雇って、主税様をお屋敷へお送りしなければ)
そこで、あやめ[#「あやめ」に傍点]は立ち上った。
この時から半刻《はんとき》ばかり経った時、龕燈の光で往来《みち》を照らしながら、老人と少年と女猿廻しとが、秋山様通りの辺りを通っていた。昨夜《ゆうべ》御用地の林の中にいた、その一組に相違なかった。
お屋敷町のこの辺りは、この時刻には人通りがなく、犬さえ歩いてはいなかった。武家屋敷の武者窓もとざされていて、戸外《そと》を覗いている人の顔など、一つとして見えてはいなかった。で、左右を海鼠《なまこ》壁によって、高く仕切られているこの往来《とおり》には、真珠色の春の夜の靄と、それを淹《こ》して射している月光とが、しめやかに充ちているばかりであった。
伊賀袴を穿いた美少年が、手に持っている龕燈で、時々海鼠壁を照らしたりした。と、その都度壁の面へ、薄赤い光の輪が出来た。
龕燈を持った美少年を先に立て、その後から老人と女猿廻しとが、肩を並べて歩いて行くのであった。
「ねえお爺様……」と女猿廻しは云って、編笠は取って腰へ付け、星のような眼の、高い鼻の、薄くはあるが大型の口の、そういう顔を少し上向け、老人を仰ぎながら審かしそうに続けた。
「なぜたかが[#「たかが」に傍点]一本ばかりの木を、三十年も護《まも》って育てましたの?」
「それはわしにも解《わか》らないのだよ」
袖無を着、伊賀袴を穿き、自然木の杖を突いた老人は、卯の花のように白い長い髪を、肩の辺りでユサユサ揺りながら、威厳はあるが優しい声で云った。
「なぜたかが[#「たかが」に傍点]一本ばかりのそんな木を、三十年もの間育てたかと、そういう疑いを抱くことよりそんなたかが一本ばかりの木を、迷わず怠らず粗末にせず、三十年もの間護り育てた、そのお方の根気と誠心《まごころ》と、敬虔な心持に感心して、そのお方のお話を承わろうと、そう思った方がいいようだよ」
「ええそれはそうかもしれませんけれど。……で、その木は何の木ですの?」
「榊《さかき》の木だということだが、松であろうと杉であろうと、柳であろうと柏の木であろうと、そんなことはどうでもよいのだよ」
「それでたくさんのいろいろの人が、そのお方の所に伺って、お教えを乞うたと仰有《おっしゃ》る[
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