ばかりの良人《おっと》として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……」
「主馬之進殿オーッ」
松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、
「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、俺《わし》の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時|妾《わたし》はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ! 先祖に対して相済まぬ!』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……」
「その御先代の死態だが……」
いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。
「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、他人《ひと》にすすめて殺したのでもない! ……わしの僕《しもべ》のあの勘兵衛、わしがこの家へ住み込ませたが、性来まことにかるはずみの男、勝手にわしの心持を……わしが先代のこの屋敷の主人の、死ぬのを希望《のぞ》んでいるものと推し、古沼から毒ある長虫を捕り、先代の病床へ投げ込んで……」
しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握む[#「握む」はママ]かと見えたが、体をのばして動かなくなった。
「あやめ[#「あやめ」に傍点]よ、お葉よ、二人の娘よ!」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。
「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お解《わか》りかお解りか! ……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない! ……可哀そうな主馬様の後を追い……」
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