敵《かな》いませんや。向こうにゃア奥様という人質があって、こっちが無鉄砲に斬り込んで行きゃア、奥様に大怪我させるんですからねえ」とこれも大息吐いて呶鳴り立てた。
「ナニ家内が描虜にされた※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」とさすがの主馬之進も仰天したらしく、
「それは一大事うち捨ては置けない! ……方々お続き下されい!」と屋内へ夢中で駈け込んだ。
「では拙者も」と、それにつづいて覚兵衛が屋内に駈け込めば、
「それじゃアあっし[#「あっし」に傍点]ももう一度」と勘兵衛も意気込んで駈け込んだ。
(夫婦の情愛は別のものだな)と後に残った頼母は呟き、戸口から屋内を覗き込んだ。
(臆病者の主馬ではあるが、女房が敵の手に捕らえられたと聞くや、阿修羅のように飛び込んで行きおった。……ところで俺《わし》はどうしたものかな?)
 頼母にとっては松女《まつじょ》の命などより、淀屋の財宝の方が大切なのであった。主税やあやめ[#「あやめ」に傍点]などを討ってとるより、独楽の秘密を解くことの方が、遥かに遥かに大切なのであった。
 で、危険な屋内などへは、入って行く気にはなれないのであった。
 太刀音、掛け声、悲鳴などが、いよいよ烈しく聞こえてはきたが、頼母ばかりはなお門口に立っていた。
 するとその時老人の声が、どこからともなく聞こえてきた。しかもそれは歌声であった。
(はてな?)と頼母は聞き耳を立てた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]真昼頃、見る日は南、背後《うしろ》北、左は東、右は西なり
[#ここで字下げ終わり]
 歌の文句はこうであった。
 そうしてその歌声は林の奥の、古沼の方から聞こえてくる。
「見る日は南と云ったようだな」と頼母は思わず声に出して云った。
(見る日は南というこの言葉は、独楽の隠語の中に有ったはずだ。その言葉を詠み込んだ歌を歌うからには、その歌の意味を知っていなければならない)
 頼母は歌の聞こえた方へ、足を空にして走って行った。
 歌の主を引っ捕らえ、歌の意味を質《ただ》そうと思ったからである。
 歌声は林に囲繞された大古沼の方から聞こえてきた。
 頼母は林の中へ走り込んだ。
 でも林の中には人影はなく、落葉松《からまつ》だの糸杉だの山桜だの、栗の木だの槇の木だのが繁りに繁り、月光を遮ぎり月光を澪し、萱だの芒だのいら[#「いら」に傍点]草だのの
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