き覚えがある。滝沢氏でござろうがな。アッハハハハ、奇遇々々。いかにも手前十返舎一九、冑《かぶと》を脱いでいざ見参! ありゃありゃありゃありゃ、ソレソレソレソレ」
 掛声と一緒に据風呂桶を次第に高く持ち上げたが、ヌッと裾から顔を覗かせると、
「一夜明ければ新玉の年、初湯を立てようと存じやしてな、風呂桶を借りて参りやした。そこで何と滝沢氏、明日《あす》は是非とも年始がてら初湯を試みにお出かけ下され。確《しか》とお約束致しやした。しからばこれにて、ハイハイご免。ありゃありゃありゃありゃ、お隠れお隠れ、血塊々々、ソレソレソレソレ」
 ふたたびスッポリ桶を冠るとやがてユサユサと歩き出した。
 後を見送った曲亭馬琴は、笑うことさえ出来なかった。あまりに一九の遣り口が彼とかけ離れているからである。
「いやどうも呆れたものだ」
 馬琴は静かに歩きながら思わず口へ出して呟いた。
「洒落と奇矯でこの浮世を夢のように送ろうとする。果してそれでよいものだろうか? 今江戸に住む戯作者という戯作者、立派な学者の太田蜀山さえ、そういう傾向を持っている。一体これでよいものだろうか? どうも自分には解らない」
 馬琴は
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