をひっさげて、戯作界へ現われたのは馬琴にとっては容易ならない競争相手といってよかろう。

物を云う据風呂桶
 それはある年の大晦日、しかも夕暮のことであったが、新しい草双紙の腹案をあれかこれかと考えながら、雑踏の深川の大通りを一人馬琴は歩いていた。
 と、ボンと衝突《つきあた》った。
「ああ痛!」と思わず叫び俯向いていた顔をひょいと上げると、据風呂桶がニョッキリと眼の前に立っているではないか。
「えい箆棒《べらぼう》、気を付けろい!」
 桶の中から人の声がする。
「桶を冠っているからにゃ、眼のみえねえのは解り切っていらあ。何でえ盲目《めくら》に衝突たりやがって。ええ気をつけろい気をつけろい!」
 莫迦に威勢のよい捲き舌で桶の中の男は罵詈《ののし》ったが、馬琴にはその声に聞き覚えがあった。それに白昼の大晦日に、深川の通りを風呂桶を冠って横行闊歩する人間は、あの男以外[#「以外」は底本では「意外」]には無いはずである。
 そこで馬琴は声を掛けて見た。
「おい貴公十返舎ではないか」
「え?」
 桶の中の男は酷《ひど》く驚いた様子であったが、にわかにゲラゲラ笑い出し、
「解ったぞ解ったぞ声に聞
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