五山に従って柄にない狂歌を学んだり、橘千蔭《たちばなちかげ》に書を習ったりしたが、成功することは出来なかった。こうして最後に志したのが好きの道の戯作者であったが、ここに初めて京伝によってその天才を認められたのである。――馬琴この時二十四歳、そうして京伝は三十歳であった。
版元蔦屋重三郎がある日銀座の京伝の住居《すまい》をさも忙《せわ》しそうに訪れた。
「おおこれは耕書堂《こうしょどう》さん」
「お互いひどい目に逢いましたなア」
蔦屋は哄然と笑ったものである。
幕府施政の方針に触れ、草双紙が絶版に附せられたのは天明《てんめい》末年のことであった。恋川春町《こいかわしゅんちょう》、芝全交《しばぜんこう》、平沢喜三二《ひらさわきさじ》と云ったような当時一流の戯作者達はこの機会に失脚し、京伝一人の天下となり大いに気持を宜《よ》くしたものであるが、寛政《かんせい》二年の洒落本禁止令は京伝の手足を奪ってしまった。
と云ってこれ迄売り込んだ名をみすみす葬ってしまうのは如何《いか》にも残念という所から版元蔦屋と相談した末「教訓読本」と表題を変え、内味は同じ洒落本を蔦屋の手で発行した。思惑通りの大当りで増版々々という景気であったが、果然鉄槌は天下った。利益に眩み上を畏れず下知《げち》を犯したは不届というので蔦屋は身上半減で闕所、京伝は手錠五十日と云う大きな灸をすえられたのである。
「さて」と蔦屋は居住居を直し京伝の顔色を窺ったが、
「身上半減でこの蔦屋もこれ迄のようにはゆきませんが、しかしこのまま廃《すた》れてしまっては商売冥利死んでも死なれません。そこでご相談に上りましたが、今年もいよいよ歳暮《くれ》に逼り新年《はる》の仕度を致さねばならず、ついては洵に申し兼ねますが、お上のお達しに逆らわない範囲で草双紙をお書き下さるまいか。」[#「まいか。」」は底本では「まいか。」]
余儀ない様子に頼んだものである。
京伝は腕を組んで聞いていたが、早速には返辞もしなかった。――彼はすっかり懲りたのである。五十日の鉄の手錠は彼には少し重すぎた。いっそ戯作の足を洗い小さくともよいから店でも出し、袋物でも商おうかしら? それに今こそ人気ではあるがいつ落ちないものでもなし、それにもし今度忌避に触れたら牢に入れられないものでもない。あぶないあぶないと思っているのであった。
「しかし蔦屋も気の
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