て隙となる。最初から体を守らなかったら、隙の出来よう筈はない」
「あっ、成程、これはごもっとも」
「さて、剣だ、下段に構えるがよい。相手の腹を狙うのだ。切るのではない突き通すのだ。眼は自分の足許を見る。そうしてじっ[#「じっ」に傍点]と動かない。敵の刀が自分の体へヒヤリと一太刀触れた時グイと剣を突き出すがよい。肉を斬らせて骨を斬る。間違っても合討ちとはなろう。打ち合わす太刀の下こそ地獄なれ身を捨てこそ浮かむ瀬もあれ。一刀流の極意の歌だ。貴殿は中年も過ごして居る。今更剣を学んだ所で到底一流には達しられぬ。無駄な時間を費やさぬがよい」
「御教訓|忝《かたじけ》のう存じます」
馬琴は礼を云って引き退ったが、心中多少不満であった。極意についての解釈も、解ったようで解らなかった。従って「八犬伝」の続稿も、書き進むことが出来なかった。憂鬱の日が続いたのである。
しかし間もなく意外な事件が馬琴の身上に降って湧いた。そうしてそれが馬琴の心を、ガラリ一変させたものである。
ある夜、馬琴はただ一人、柳原の土手を歩いていた。
と、一人の若侍が、暗い柳の立木の陰から、つと姿を現わしたが宗十郎頭巾で顔を包み黒紋付を着流している。
馬琴は気味悪く思いながらも、引き返すことも出来なかったので、往来の端を足音を忍ばせ、しとしと[#「しとしと」に傍点]と先へ歩いて行った。すると、ひそかに心配していた通り、覆面の武士が近寄って来た。スルリ双方擦れ違った途端、キラリと剣光が閃いた。
「抜いたな」と馬琴は感付いたが、却《にげ》も走りもしなかった。かえって彼は立ち止まったのである。それから静かに刀を抜くと、それを下段に付けたまま悠然と体の方向《むき》を変え、グルリ背後《うしろ》へ振り向いて辻斬の武士と向かい合った。
「うむ、ここだな、無念無想!」
馬琴は心で呟くと、故意《わざ》と相手の姿は見ずに自分の足許へ眼を注けた。臍下丹田に心を落ち付け、いつ迄も無言で佇んだ。
相手の武士もかかって来ない。青眼に刀を構えたまま、微動をさえもしないのである。
八犬伝書き進む
その時武士の囁く声が馬琴の耳へ聞こえてきた。
「驚き入ったる無想の構え。合討ちになるも無駄なこと、いざ刀をお納め下され」
そういう言葉の切れた時パチリと鍔鳴りの音がした。武士は刀を納めたらしい。しかし馬琴は動かなかった。じっ[#「じ
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