っ」に傍点]と刀を構えたまま不動の姿勢を崩そうともしない。返辞をしようともしなかった。声の顫えるのを恐れたからである。
と、また武士の声がした。
「拙者は武術修行の者、千葉周作成政と申す。ご姓名お聞かせ下さるまいか」
しかし馬琴は返辞をしない。無念無想を続けている。
「誰人《どなた》に従《つ》いて学ばれたな? お聞かせ下さることなりますまいかな?」
武士の声はまた云った。
「拙者師匠は浅利又七郎」
馬琴は初めてこう云ったがその声は顫えていなかった。この時彼の心持は水のように澄み切っていたのである。
「ははあ、浅利殿でござったか。道理で」と武士は呟くように云った。
「今夜は拙者の負けでござる。ご免」と云う声が聞こえたかと思うと、立ち去るらしい足音がした。
その足音の消えた時、馬琴は初めて顔を上げた。武士の姿はどこにも見えない。そこには闇が有るばかりである。
自分の家へ帰って来ると、直ぐに馬琴は筆を執った。犬飼現八の怪猫退治――八犬伝での大修羅場は、瞬間にして出来上ったが、爾来滞ることもなく厖大極まる物語りは、二十年間書きつづけられたのである。
底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
1993(平成5)年7月20日初版発行
初出:「サンデー毎日」
1925(大正14)年4月1日春季特別号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年5月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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