ヶ谷と過ぎ、戸塚の宿へ入った頃には、日もとっぷりと暮れたので、笹屋という旅籠《はたご》へ泊ったが、これぞ東海道五十三次を三月がかりで遊び歩いた長い旅行の第一日であり、一九の名をして不朽ならしめた、「東海道中膝栗毛《とうかいどうちゅうひざくりげ》」の、モデルとなるべき最初の日であった。
剣道極意無想の構え
「もう俺も若くはない。畢世の仕事、不朽の仕事に、そろそろ取りかかる必要があろう」
こういう強い決心の下に「八犬伝」に筆を染めたのは、文化十一年の春であった。
この頃の馬琴の人気と来ては洵に眼覚しいものであって、戯作界の第一人者、誰一人歯の立つ者はなく、版元などは毎日のように機嫌伺いに人をよこし、狷介孤嶂《けんかいこしょう》の彼の心を努めて迎えようとした程である。
「八犬伝」の最初の編が一度市場へ現われるや、萬本|即座《たちどころ》に売り尽くすという空前の売れ行きを現わした。書斎の隣室へ朝から晩まで画工と彫刻師とが詰めかけて来て、一枚書ければ一枚だけ絵に描いて版に起こし、一編集まれば一編だけ、本に纏めて売り出すのであった、それでも読者は待ち兼ねて矢のような催促をするのであった。
こうして四編を出した時、馬琴はにわかに行き詰まった。
「俺は身分は武士であったが、何故か武芸を侮ってこれ迄一度も学んだことがない。武芸を知らずに武勇譚を書く、これは行き詰るのが当然である」
こう考えて来て当惑したが、そこは精力絶倫の馬琴のことであったから、決して挫折はしなかった。当時の剣客|浅利又七郎《あさりまたしちろう》へ贄《にえ》[#「贄」は底本では「贅」]を入れて門下となり、剣を修めようとしたのである。
馬琴の健気《けなげ》なこの希望《のぞみ》を浅利又七郎は受け納《い》れた。
「先ず型を習うがよい」
又七郎はこう云って自身手をとって教授した。型の修行が積んだ所で又七郎は又云った。
「極意に悟入する必要がある。無念無想ということだ」
「無念無想と申しますと?」
馬琴にはその意味が解らなかった。
「敵に向って考えぬ[#「考えぬ」に傍点]ことだ」
「全身隙だらけにはなりますまいか?」
「そこだ」と又七郎は頷いたが、
「全身これ隙、それがよいのだ」
「ははあ左様でございましょうか」
「全身隙ということは隙が無いと同じことだ」
「ははあ」と馬琴は眼を丸くする。
「守りが乱《みだ》れ
前へ
次へ
全12ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング