おり》を歩いていた。霧の深い夜であった。背後《うしろ》から自動車が駛《はし》って来た。
「馬鹿野郎!」と運転手が一喝した。
 危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から義歯《いれば》を見せた。紳士にも私は見覚えがあった。当市一流の紳商であった。新聞雑誌で知っていた。六十を過ごした老人で精力絶倫と好色とで、世間に有名な老紳士であった。
 私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を曲《こご》め背を丸め、顔を低く地に垂れた。そうして撲《う》たれた犬のように、ヨロヨロと横へ蹣跚《よろめ》いた、私は何かへ縋り付こうとした。
 冷たい物が手に触れた。それは入口の扉《ドア》であった。私は内へ吸い込まれた。
 真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。
 珈琲店《カフェ》であった。鏡であった。私は写っていたのであった。

 イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪った。イスカリオテのユダがそれを呪った。みんな別々の意味において。そうして今や私が呪う。憎むべき銀三十枚を!

 人は信仰を奪われた時、一朝にして無神論者となる。
 人は愛情を裏切られた時、一朝にして虚無思想家となる。
 ユダの運命がそれであった。
 私は私の思想として、ユダの無神論と虚無思想とを、自分の心に所有《も》っていた。
 今や私は感情として、それを持たなければならなかった。
 今、私はユダであった。
「助けて下さい! 助けて下さい!」
 私は救いを求めるようになった。
 しかし救いはどこにもなかった。
 一つある!
 基督《キリスト》だ!

 キリストを売ったイスカリオテのユダは、売った後でキリストを求めただろう!

15[#「15」は縦中横]

 これがいよいよ大詰かもしれない。
 その夜私は公園にいた。彷徨《さまよ》ってそこ迄行ったのであった。詐欺師と邂逅《あ》ったロハ台へ、私は一人で腰をかけていた。生暖かい夜風、咽るような花の香、春蘭の咲く季節であった。噴水はすでに眠っていた。音楽堂には燈《ひ》がなかった。日曜の晩でないからであった。公園には誰もいなかった。ひっそりとして寂しかった。夜は随分深かった。月が空にひっ[#「ひっ」に傍点]懸かっていた。靄が木間に立ち迷っていた。物の陰が淡く見えた。
 私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気はひどく[#「ひどく」に傍点]進んでいた。心臓の動悸、指頭《ゆびさき》の顫え、私は全然《まるで》中風のようであった。視力が恐ろしく衰えてしまった。そうして強度の乱視となった。五分と物が見詰められなかった。絶えずパチパチと瞬きをした。瞼の裏が荒れてしまった。
 誰も介抱してくれなかった。
 お母様! お母様!
 実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃! そこの実家! 誰とも逢わずに死ななければなるまい。
「もう一|呼吸《いき》だ。指先でいい。ちょっと背後《うしろ》から突いてくれ。死の深淵へ落ちることが出来る」
 私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。
「もう一呼吸だ。指先でいい」
 その時自動車の音がした。
 私は反射的に飛び上った。
 病院の方角から自動車が、こっちへ向かって駛《はし》って来た。私の眼前《めのまえ》を横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。デパートメントの主人であった。外妾を持っているということで新聞へ書かれた紳士であった。車内は桃色に明るかった。柔かいクッション、馨《かんば》しい香水、二人はきっと幸福なんだろう。顔を突き合わせて話していた。一瞬の間に過ぎ去った。月光が車葢《おおい》に滴っていた。タラタラと露が垂れそうだった。都会の空は赤かった。その方から警笛が聞こえてきた。
「もういい」と私は自分へ云った。
 最後の一突きが来たからであった。花壇を越して林があった。目掛けて置いた林であった。私はその中へ分け入った。
「ユダも縊《くび》れて死んだはずだ」
 木を選ばなければならなかった。木はみんな若かった。一本の木へ手を掛けた。幹へ額を押し付けた。ひやひやとして冷たかった。そうして大変滑らかだった。シーンと心が静まった。平和が心へ返って来た。
「脆そうな木だ。折れるかもしれない」
 もう一本の木へ手を触れた。
 その時私へ障るものがあった。誰かが肩を抑えたのであった。
 私は静かに振り返った。
 一人の男が立っていた。
 鳥打を頭に載っけていた。足に雪駄《せった》をつっ[#「つっ」に傍点]かけていた。
 私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。
 この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。
「どうしたね?」とその男が云った。
「…………」
「黙っていては解《わか》らない」
 刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。
「不心得をしてはいけないよ」
 むしろ訓すような声であった。
「無教育の人間とも見えないが」
 刑事は私の足許を見た。
「君、どこに住んでるね」
「市内西区児玉町」
「何だね、一体、商売は?」
 私は返事をしなかった。
「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」
 刑事は背中を向けようとした。
「僕に家なんかあるものか」
「何イ!」と刑事は振り返った。
「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!」
「家はあるよ。……だがないんだ」
 刑事はしばらく睨んでいた。
「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」
「妻君」と私は肩を上げた。
「妻君は自動車に乗ってったよ」

16[#「16」は縦中横]

 刑事はちょっと考えた。
「ふふん、こいつ狂人《きちがい》だな。……死にたければ勝手に死ぬがいい。だがここは俺の管轄だ。……他へ行ってぶら[#「ぶら」に傍点]下るがいい」
「妻君は自動車へ乗ってったよ。たった今だ。紳士とな」
「これは可笑《おか》しい」と刑事は云った。
「それじゃアあの[#「あの」に傍点]女を知ってるのか。俺の狙《つ》けてる淫売だが」
「あれが僕の妻君さ」
 私は何かに駈り立てられた。畜生! こいつを吃驚《びっくり》させてやれ!
「君、あいつは詐欺師なんだ。あいつは白金《プラチナ》を詐欺したんだ。……勿論君も知ってるだろう、大詐欺師の佐伯準一郎ね、ありゃアあいつの片割れなんだ」
 刑事はじっ[#「じっ」に傍点]と聞き澄ましていた。
「捕縛したまえ。手柄になるぜ」
 刑事は急に緊張した。だがすぐに揶揄的になった。
「君のような狂人の妻君に、あんな別嬪がなるものか。まあまあいいから帰りたまえ」
 たくましい手をグイと延ばし、私の腕をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。
「お前、金は持ってるのか?」
「うん」と私は頷いて見せた。
「いくら[#「いくら」に傍点]あるね、云って見給え」
「袂《たもと》にあるんだ、蟇口がな。いくらあるか知るものか」
 刑事は腕から手を放した。
「調べてやろう、出したまえ」
 私は袂から蟇口を出した。
「それ五円だ。それ赤銭だ。それ十銭だ。それ五円だ。まだあるぜ、それ十円だ」
「よしよし」と刑事は頷いた。
「それだけありゃア結構じゃアないか。歩いた歩いた送ってやろう。どうも手数のかかる奴だ」
 また腕をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。町の方へ引っ張って行った。私は変に愉快になった。で、のべつ[#「のべつ」に傍点]にまくし立てた。
「莫迦だなあ刑事君、あの女は詐欺師なんだ。白金三十枚を隠しているんだ、一枚や二枚は使ったろう。とても大きな白金なんだ。五十|匁《もんめ》ぐらいはあるだろう。たった一枚で三千円だ。それがみんな[#「みんな」に傍点]で三十枚あるんだ。佐伯の物だ、大詐欺師のな。最初に俺が借りたんだ。そいつをあいつが取っちゃったんだ。あっ痛え! そう引っ張るな! 嘘じゃアねえ、本当のことだ。大馬鹿野郎め、ふん掴まえてしまえ! 引っかかったんだよ、ペテンにな。捕縛されるのが解《わか》ってたんだ。俺は文士だ、小説書きだ。そこをきゃつが狙ったんだ。でたらめの話をしやがって、俺の好奇心をそそりゃアがって、そいつを俺に預けやがったんだ。古いペテンだ、古いとも。牢から出ると取りに来るやつよ。いい隠し所を目つけたって訳さ。本当の事だ、信用しろ。家捜ししなよ、俺の家を、きっとどこかにあるだろう。……そこは女のあさましさだ。眼がクラクラと眩んだんだ。うん、白金を手に入れるとな。すっかり変わってしまやアがった。……」
 刑事はニヤニヤ笑っていた。公園を出ると町であった。右角に貸自動車《タクシ》の待合があった。
「おい、自動車《タクシ》」と刑事は呼んだ。
「へい」と運転手が走って来た。
「この男を載っけてくれ」
 すぐ自動車が引き出された。私はその中へ押し込まれた。
「金は持ってる、大丈夫だ。中村へでも送り込んでやれ。遊廓で一晩遊ばせてやれ」
 こう云うと刑事は愉快そうに笑った。ひどく人のいい笑い方であった。
 ゴーッと自動車は動き出した。

 彼女は彼女の生活をした。私は私の生活をした。家庭生活は破壊された。だが一緒には住んでいた。彼女はますます美しくなった。近付きがたいまでに美しくなった。そうして素晴らしく高貴になった。
「貴女様は一体|何人《どなた》様で?」
 こう云いたいような女になった。
 行くべき所へ行き着いてしまった。私は放蕩に耽るようになった。酒だ! 女だ! 寝泊りだ!
 ある時ある所で三日泊まった。四日目の夕方帰って来た。
 と、貸家札が張られてあった。
「鳥は逃げた!」と私は云った。
「オフェリヤ殿、オフェリヤ殿、尼寺へでもお行きやれ」
 シェイクスピアの白《せりふ》が浮かんできた。
「尼寺なものか、極楽だ! マリア・マグダレナは極楽へ飛んだ」
 私は大声で笑おうとした。が反対に胴顫いがした。
「だが、予定の行動を」
 私は踵を返そうとした。
「お神さんえ、どうぞ一文、よし、俺は乞食になろう!」
「もし」とその時呼ぶ声がした。
 側《そば》に小男が立っていた。
「へえへえ」と私は手を揉んだ。
「旦那様え、何かご用で?」
 乞食の稽古をやり出した。

17[#「17」は縦中横]

「貴郎はここのご主人で?」
 その洋服の紳士は云った。
「へえへえ左様で、昔はね。今は立ん棒でございますよ」
 その紳士は微笑した。
「奥様からのお伝言《ことづけ》で。あるよい家が目つかりましたので、昨日《きのう》お移りなさいましたそうで。それで、お迎えに参りました」
「一体貴郎様はどういうお方で?」
「へい、タクシの運転手で」
「すぐ載っけろ! 馬鹿野郎!」
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街《ちまた》に落つる物の音
雨にはあらで落葉なる
明るき蒼き瓦斯《ガス》の燈《ひ》に
さまよう物は残れる蛾
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 廃頽詩人ヴェルレイヌ、卿《おんみ》だけだ! 知っている者は! 秋の呼吸《いぶき》を、落葉の心を、ひとり死に残った蛾の魂を。
 私のタクシは駛《はし》っていた。
 街路樹がその葉をこぼしていた。人々は外套を鎧っていた。寒そうに首をすっ込めていた。冬がそこまで歩いて来ていた。白無垢姿の冬であった。
「俺も長い間苦しんだなあ」
 クッションへ蹲《うずくま》って考えた。
「もう堪忍してくれないかなあ」
 私はじっと瞑目した。
「でなかったら葬ってくれ。落葉がいいよ、朴《ほう》の落葉が」
 私のタクシは駛っていた。
「泣けたらどんなにいいだろう」
 おずおず眼をあけて車外《そと》を覗いた。
 そこは賑かな広小路であった。冬物が飾り窓に並べられてあった。それを覗いている
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