飲んだ。
「赤い警察の提燈《ちょうちん》が、チラツイているあの屋敷だ」
妻も唾を飲んだらしい。運転手が扉《ドア》を開けようとした。
「待て」と私は嗄声《かれごえ》で制した。窓のカーテンを掻い遣った。妻の鬢の毛が頬に触れた。
佐伯家の厳めしい表門が、一杯に左右に押し開けられていた。赤筋の入った提燈が、二つ三つ走り廻っていた。遠巻きにした見物が、静まり返って眺めていた。門の家根《やね》から空の方へ、松の木がニョッキリ突き出していた。遥かの町の四つ角を、終電車が通って行った。
刺すような静寂が漲っていた。
「おい、運転手君、引っ返しておくれ」
――で、タクシは引っ返した。
彼女は何とも云わなかった。彼女の肩が腕の辺りで、生暖かく震えていた。
何か捨白《すてぜりふ》が言いたくなった。
「捕り物の静けさっていうやつさね。旅行しますと云ったっけ。ははあ刑務所のことだったのか。佐伯君、警句だぞ」
勿論腹の中で云ったのであった。
12[#「12」は縦中横]
その翌日の新聞は、刺戟的の記事で充たされていた。大標題《おおみだし》だけを上げることにしよう。
[#ここから3字下げ]
国際的大詐欺師
佐伯準一郎捕縛さる
[#ここで字下げ終わり]
勿論特号活字であった。
欧米、南洋、支那、近東、こういう方面を舞台とし、十数年間組織的詐欺を、働いていたということや、日本知名の富豪紳士にも、被害者があるということや、数ヶ月前名古屋に入り込み、ために司法部の活動となり、捜索をしていたということや、昨夜何者か密告者があって、始めて所在を知ったということや、家宅捜索をした所、贋物の骨董があったばかりで金目の物のなかったということや、書生や女中は新米で、様子を知らなかったということや、××町の屋敷へは、ほんの最近に移って来たので、まだ近所への交際《つきあい》さえ、はじめていなかったということや、最後に至って別標題を附け、国際的陰謀の秘密結社に、関係あるらしいということなどが、三段に渡って記されてあった。
私と妻とは眼を見合わせた。どうしていいか解《わか》らなかった。白金《プラチナ》に違いないと思われる、銀三十枚を携えて、警察へ訴え出ることが、とるべき至当の手段ではあったが、そのため同類と疑われ、種々《いろいろ》うるさい取り調べを受け、新聞などへ書かれることが、どうにも不愉快でならなかった。と云って保存して置いたなら、いわゆる贓物隠匿として、露見した場合には必然的に、刑事問題を惹き起こすだろう。
「おい、どうしたものだろう?」
「さあ、ねえ」と彼女は考え込んだ。
「訴えて出るのが至当でしょうね」
「うん」と私は考え込んだ。
「変にえこじ[#「えこじ」に傍点]に調べられると、カッと逆上する性質《たち》だからなあ」
「それに貴郎《あなた》はお忙しいんでしょう」
「うん、目茶々々に忙しいんだ。動揺させられるのが一番困る。今が大事な時なんだからな。せっかくの空想が塞がれてしまう」
「それが一番困りますわね」
彼女は熱心に考え込んだ。
大方の芸術家がそうであるように、一面私は神経質で、他面私は放胆であった。又一面|洒落《しゃれ》者で他面著しく物臭であった。宿命的病気に取っ付かれて以来、その程度が烈しくなった。この病気の特徴として、いつも精神が興奮した。
だが私は私の病気を、祝福したいような時もあった。「空想」が奔馳して来るからであった。本来私という人間は、空想的の人間であった。空想には不自由しなかった。それが病気になって以来、その量が一層増したらしい。空で行なわれているエーテルの建築! それを破壊する電子の群れ! そんなものが私には、「見える」のであった。だがまだ私は霊媒《ミジャム》ではなかった。しかし早晩なるだろう。他界の消息、黄泉の通信、幽霊達の訴言《うったえごと》、そういうものだって知ることが出来よう。
物を書きながら苦しむことがあった。後から後からと空想が、駈け足で追っかけて来るからであった。文字にして原稿紙へ書き取る暇さえ、ゆっくり与えてはくれないからであった。そんな時私はゴロリと寝た。動悸の烈しい心臓を抑え、空想の駈け抜けるのを待つのであった。
町を歩きながら立ち止まり、電信柱へ倚りかかり、湧き上って来る空想を、鼻紙の上へ書いたりした。
ある夜空想が湧き上って来た。折悪しく鼻紙を持っていなかった。一軒の商店の板壁へ、万年筆で書き付けた。そうして翌朝出かけて行き、写し取って来たような事さえあった。
今に私は往来の人の、背中へ紙をおっ付けて、そこで書くようになるかもしれない。
創作力に充満《みちみち》ていた。それをこんなつまらない[#「つまらない」に傍点]ことで、破壊されるのは厭だった。
急に妻は変に笑った。ゾッとするような笑い方であった。それから私をからかい[#「からかい」に傍点]出した。
「無理はないわね、貴郎としては。そうら出入りの呉服屋さん、ちょっと相場で儲けたと云って、白金《プラチナ》の腕時計を巻いて来たらニッケルにしちゃアいい艶だって、こんな事を云ったじゃアありませんか、そうかと思うと妾の時計、そりゃあニッケルとしては類なしで、金時計より高価《たかい》んですけれど、こいつア素晴らしい白金だって、大騒ぎをしたじゃアありませんか。白金だか銀だか解《わか》らないのは[#「解《わか》らないのは」は底本では「解《わか》からないのは」]、ちっとも不思議じゃアありませんわね」
13[#「13」は縦中横]
「何だ莫迦め!」と呶鳴り付けた。
「そんな事を云い出して何になるんだ」
だが彼女はますます笑い、ますます私をからかった[#「からかった」に傍点]。
「貴郎《あなた》、ペテンに掛かったのよ。ええそうとしか思われないわ。でもどうしてこんなペテンに? いいえさ佐伯とかいう大詐欺師が、どうしてこんな変なペテンに、引っかけなければならなかったんでしょう? 儲かることでもないのにね。かえって大変な損をするのに。これには奥底があるんだわ。そうとしきゃア思われないわ。恐いわねえ、どうしましょう。返していらっしゃいよ、さあ直ぐに」
「莫迦め!」と私はまた呶鳴った。
「牢屋へ持ってって返せってのか」
「では貴郎には手が着かないのね?」
にわかに彼女は冷静になった。
「妾《わたし》にお委せなさいまし」
「で、お前はどうするつもりだい?」
「貴郎それをお聞きになりたいの? では自分でなさるがいいわ」
彼女は再び揶揄的になった。
「だってそうじゃアありませんか、一切妾に委されないなら」
「だが俺には手が出ないよ」
「お書きなさいまし、原稿をね」
それは歌うような調子であった。
「そうして何にも思わないがいいわ。食い付きなさいまし、お仕事にね。貴郎は可愛いお馬鹿ちゃんよ。組織立ったことをさせるのは、それは無理と云うものよ。お信じなさいまし、妾をね」
私は彼女へ委せてしまった。何にも考えないことにした。さあ仕事だ! さあ創作だ! 空想よ駈り立ててくれ!
年が改たまって新年《はる》となった。
妻の様子が変わって来た。
彼女と私とは恋愛によって、一緒になった夫婦であった。彼女は私を愛していた。ところがこの頃愛さなくなった。
「ねえ、お馬鹿ちゃん」
「ねえ、凸坊」
これが私への愛称であった。この頃ではそれを封じてしまった。彼女はひどく剽軽であった。途方もない警句を頻発しては、私を素晴らしく喜ばせてくれた。
「ね、ご覧なさいよ、ベッキイちゃんを、てまつく[#「てまつく」に傍点]しているじゃアありませんか」
よく彼女はこんなことを云った。ベッキイというのは飼い犬であった。活動俳優の天才少女、ベビー・ベッキイの名を取って、彼女が命名《なづ》けた犬の名であった。てまつく[#「てまつく」に傍点]というのは手枕のことで、その飼い犬が寝ている様子を、そう形容して云ったのであった。
これは何でもない云い方かもしれない。しかし彼女が云う時は、光景が躍如とするのであった。犬ではなくて人間の、可愛い可愛いベッキイという少女が、さも愛くるしく手枕をして、眠っているように思われるのであった。
しかし彼女はこの頃では、もうそんなことも云わなくなった。私が散歩でもしようとすると、彼女はきっと呼び止めた。立ったまま私を抱き介《かか》え、少しおデコの彼女の額を、私の額へピッタリと食っ付け、梟のように眼を見張り、嚇かすように頬を膨らせ、
「いい事よ、行っていらっしゃい」
こう云ってようやく放してくれた。が、それも遣らなくなった。
泣くことの好きな女であった。ある朝私は顔を洗い、冷たい手をして居間へ行った。と、彼女が化粧をしていた。胸が蒼白くて綺麗だった。冷たい手先をおっ附けてやった。それが悲しいといって泣き出した。大変美しい泣き方であった。勿論拵えた媚態であった。それが彼女には似つかわしかった。が、それもやらなくなった。
笑うことの上手な女であった。「無智の笑い方」が上手であった。利口な彼女が笑い出すと、無智な無邪気な女に見えた。それこそ実際男にとっては、有難い笑いと云わなければならない。瞬間に苦労が癒えるからであった。が、それもやらなくなった。
彼女は不思議な女であった。千里眼的の所があった。ウイスキイの二三杯もひっかけて――私は元は非常な豪酒で、一升の酒は苦しまずに飲んだ――門《かど》の格子を静かにあけると、きっと彼女は云ったものである。
「ご機嫌ね、柄にないわ」
……時々|交際《つきあい》で旗亭《ちゃや》へ行き、さり気なく家へ帰って来ると、三間も離れて居りながら、
「厭な凸坊、キスしたのね。若い綺麗な芸子さんと。襟に白粉が着いてるわ」
……だが彼女はこの頃では、もうそんな事も云わなくなった。
私が戸外《そと》で何をしようと、気に掛けようとはしなかった。
これは一体どうしたのだろう? 何が彼女を変えたのだろう?
彼女は丸髷が好きであった。いつかそれを王女《クイン》髷に変えた。
家に居たがる女であった。ところがこの頃では用もないのに、戸外へばかり出たがった。
驚くべきことが発見された。彼女は実に僅かな間に、奇蹟的に美しくなり、奇蹟的に気高くなった。
「美粧倶楽部へでも行くのだな。恋人でも出来たのではあるまいか? 恋人が出来ると女という者は、急に美しくなるものだ」
私の心は痛くなった。憂鬱にならざるを得なかった。
14[#「14」は縦中横]
仰天するようなことが発見された。ある夜私は戸外から帰って来た。彼女は私の書斎にいた。細巻|煙草《たばこ》を喫《ふ》かしていた。煙草を支えた左手の指に、大きなダイヤが輝いていた。
「その指環は?」と私は云った。
私の知らない指環であった。
彼女は無言で指を延ばした。そうしてじっと[#「じっと」に傍点]ダイヤに見入った。その燦然たる鯖色の光輝を、味わっているような眼付きであった。二本の指で支えられ、ピンと上向いた煙草からは、紫の煙りが上っていた。一筋ダイヤへ搦まった。光りと煙り! 微妙な調和! 何と貴族的の趣味ではないか! 彫刻のような彼女の顔! 今にも唇が綻びそうであった。モナリザの笑い? そうではない! 娼婦マリヤ・マグダレナの笑い!
私は瞬間に退治られた。
数日経って松坂屋から、一揃いの衣裳が届けられた。それは高価な衣裳であった。帯! 金具! 高価であった。誂えたはずのない衣裳であった。私の知らない衣裳であった。
そこで私は懇願した。
「話しておくれ、どうしたのだ?」
ただ彼女は微笑した。例のマリヤの微笑をもって。
「おい!」と私は威猛高になった。
「処分したな、贓物を!」
「貴郎《あなた》」と彼女は水のように云った。
「贓物ですって? 下等な言葉ね」
「売ったのだろう! 白金《プラチナ》を!」
「貴郎」と彼女は繰り返した。
「約束でしたわね、訊かないと云う」
彼女は私を下目に見た。彼女は貴婦人そのものであった。
大詰の前の一齣が来た。
円頓寺街路《えんとんじど
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