た。
「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」
「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。
「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと関係《かかわり》はない」
下宿生活が不便になった。
「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」
私は借家を探し出した。
児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。
「おや」と私は思わず云った。
表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」
格子の内側に障子があり、障子には硝子《ガラス》が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。
「おや」と私はまた云った。
見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまり[#「ちんまり」に傍点]とかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢《けはい》を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。
「粂子!」と私は声を上げた。
前へ
次へ
全81ページ中76ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング