女があった。寒そうに髱《たぼ》[#ルビの「たぼ」は底本では「たば」]がそそけ[#「そそけ」に傍点]立っていた。巨大な建物の前を過ぎた。明治銀行に相違なかった。地下室へ下りて行く夫婦連があった。食堂で珈琲《コーヒー》を啜るのだろう。また巨大な建物があった。旧伊藤呉服店であった。タクシはそこから右へ曲った。少し町が寂しくなった。タクシは大津町を駛って行った。私はまたも瞑目した。
 立派な屋敷の前へ来た。自動車から下りなければならなかった。厳めしい門が立っていた。黒板壁がかかっていた。
 運転手は一揖した。
「はい、お屋敷へ参りました」
 私は無言で表札を見上げた。一條寓と記されてあった。
 潜戸《くぐり》を開けて入って行った。玄関まで八間はあったろう。スベスベの石畳が敷き詰めてあった。しっとりと露が下りていた。高い松の植込みがあった。
「家賃にして三百円!」
 譫言《うわごと》のように呟いた。
 私は玄関の前に立った。
 と、障子がスーと開いた。
 妻か? いやいや知らない婦人が、恭しく手をついてかしこまっていた。
「旦那様お帰り遊ばしませ」
 女は島田に結っていた。
「……で、貴女は?」
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