私は静かに振り返った。
 一人の男が立っていた。
 鳥打を頭に載っけていた。足に雪駄《せった》をつっ[#「つっ」に傍点]かけていた。
 私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。
 この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。
「どうしたね?」とその男が云った。
「…………」
「黙っていては解《わか》らない」
 刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。
「不心得をしてはいけないよ」
 むしろ訓すような声であった。
「無教育の人間とも見えないが」
 刑事は私の足許を見た。
「君、どこに住んでるね」
「市内西区児玉町」
「何だね、一体、商売は?」
 私は返事をしなかった。
「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」
 刑事は背中を向けようとした。
「僕に家なんかあるものか」
「何イ!」と刑事は振り返った。
「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!」
「家はあるよ。……だがないんだ」
 刑事はしばらく睨んでいた。
「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」
「妻君」と私は肩を上げた。
「妻君は自動車に乗ってったよ」


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