おり》を歩いていた。霧の深い夜であった。背後《うしろ》から自動車が駛《はし》って来た。
「馬鹿野郎!」と運転手が一喝した。
 危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から義歯《いれば》を見せた。紳士にも私は見覚えがあった。当市一流の紳商であった。新聞雑誌で知っていた。六十を過ごした老人で精力絶倫と好色とで、世間に有名な老紳士であった。
 私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を曲《こご》め背を丸め、顔を低く地に垂れた。そうして撲《う》たれた犬のように、ヨロヨロと横へ蹣跚《よろめ》いた、私は何かへ縋り付こうとした。
 冷たい物が手に触れた。それは入口の扉《ドア》であった。私は内へ吸い込まれた。
 真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。
 珈琲店《カフェ》であった。鏡であった。私は写っていたのであった。

 イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪
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