この頃愛さなくなった。
「ねえ、お馬鹿ちゃん」
「ねえ、凸坊」
これが私への愛称であった。この頃ではそれを封じてしまった。彼女はひどく剽軽であった。途方もない警句を頻発しては、私を素晴らしく喜ばせてくれた。
「ね、ご覧なさいよ、ベッキイちゃんを、てまつく[#「てまつく」に傍点]しているじゃアありませんか」
よく彼女はこんなことを云った。ベッキイというのは飼い犬であった。活動俳優の天才少女、ベビー・ベッキイの名を取って、彼女が命名《なづ》けた犬の名であった。てまつく[#「てまつく」に傍点]というのは手枕のことで、その飼い犬が寝ている様子を、そう形容して云ったのであった。
これは何でもない云い方かもしれない。しかし彼女が云う時は、光景が躍如とするのであった。犬ではなくて人間の、可愛い可愛いベッキイという少女が、さも愛くるしく手枕をして、眠っているように思われるのであった。
しかし彼女はこの頃では、もうそんなことも云わなくなった。私が散歩でもしようとすると、彼女はきっと呼び止めた。立ったまま私を抱き介《かか》え、少しおデコの彼女の額を、私の額へピッタリと食っ付け、梟のように眼を見張り
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