へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。[#「掴むがいい。」は底本では「掴むがいい、」]だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を動《そそ》られるだろう。そうして世間から迫害されるだろう。一生平和は得られないだろう」
基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。
一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、耶蘇《エス》基督との肖像を、三十枚の貨幣のその中から、苦心して選択をすることが出来た。まだ後十七枚残っていた。どれにも肖像が打ち出されてあった。それも間もなく知ることが出来た。
モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。
「猶太《ユダヤ》の古代貨幣なら、猶太文字で署名がしてあるはず
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