ざまず》いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。
 ユダだけは一人立っていた。



 それは劇的の光景であった。
 だが何物にも変化はなかった。
 沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。
 ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側《そば》で、曳かれて来るキリストを待っていた。
 それは劇的の光景であった。
 使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。
「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。
「父から贈《くだ》された盃だ」
 彼は両手を差し出した。
 彼は、従容《しょうよう》と縄を受けた。

 誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山《かんらんざん》は静かになった。
 ユダ一人が残っていた。
「悲しみもせ
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