女があった。寒そうに髱《たぼ》[#ルビの「たぼ」は底本では「たば」]がそそけ[#「そそけ」に傍点]立っていた。巨大な建物の前を過ぎた。明治銀行に相違なかった。地下室へ下りて行く夫婦連があった。食堂で珈琲《コーヒー》を啜るのだろう。また巨大な建物があった。旧伊藤呉服店であった。タクシはそこから右へ曲った。少し町が寂しくなった。タクシは大津町を駛って行った。私はまたも瞑目した。
立派な屋敷の前へ来た。自動車から下りなければならなかった。厳めしい門が立っていた。黒板壁がかかっていた。
運転手は一揖した。
「はい、お屋敷へ参りました」
私は無言で表札を見上げた。一條寓と記されてあった。
潜戸《くぐり》を開けて入って行った。玄関まで八間はあったろう。スベスベの石畳が敷き詰めてあった。しっとりと露が下りていた。高い松の植込みがあった。
「家賃にして三百円!」
譫言《うわごと》のように呟いた。
私は玄関の前に立った。
と、障子がスーと開いた。
妻か? いやいや知らない婦人が、恭しく手をついてかしこまっていた。
「旦那様お帰り遊ばしませ」
女は島田に結っていた。
「……で、貴女は?」と私は訊いた。
自動車の帰って行く音がした。
「はい、妾《わたくし》、小間使で」
私はヌッと玄関を上った。
「うん。ところで山神《やまのかみ》は?」
直ぐ左手に応接間があった。その扉《ドア》が開いていた。それは洋風の応接間であった。
「あの、お寝みでございます」
「伯爵夫人はお寝みか」
私は応接間へ入って行った。
一つの力に引き入れられたのであった。
その応接間には見覚えがあった。
佐伯準一郎氏の応接間であった。
18[#「18」は縦中横]
爾来私達はその家に住んだ。
彼女は依然として出歩いた。あたかもそれが日課のように。
彼女は入念にお化粧をした。あたかもそれが日課のように。
毎朝牛乳で顔を洗った。
とりわけ爪の手入れをした。これにはもっともの理由《わけ》があった。他がどんなに綺麗でも、爪に一点の斑点《しみ》があったら、貴族の婦人とは見えないからであった。
彼女は耳髱《みみたぶ》に注意した。耳髱はいつもピンク色であった。それが彼女を若々しく見せた。
彼女は踵に注意した。いつも円さと滑らかさと、花弁《はなびら》の色とを保っていた。
耳の穴、鼻の穴に注
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