私は静かに振り返った。
一人の男が立っていた。
鳥打を頭に載っけていた。足に雪駄《せった》をつっ[#「つっ」に傍点]かけていた。
私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。
この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。
「どうしたね?」とその男が云った。
「…………」
「黙っていては解《わか》らない」
刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。
「不心得をしてはいけないよ」
むしろ訓すような声であった。
「無教育の人間とも見えないが」
刑事は私の足許を見た。
「君、どこに住んでるね」
「市内西区児玉町」
「何だね、一体、商売は?」
私は返事をしなかった。
「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」
刑事は背中を向けようとした。
「僕に家なんかあるものか」
「何イ!」と刑事は振り返った。
「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!」
「家はあるよ。……だがないんだ」
刑事はしばらく睨んでいた。
「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」
「妻君」と私は肩を上げた。
「妻君は自動車に乗ってったよ」
16[#「16」は縦中横]
刑事はちょっと考えた。
「ふふん、こいつ狂人《きちがい》だな。……死にたければ勝手に死ぬがいい。だがここは俺の管轄だ。……他へ行ってぶら[#「ぶら」に傍点]下るがいい」
「妻君は自動車へ乗ってったよ。たった今だ。紳士とな」
「これは可笑《おか》しい」と刑事は云った。
「それじゃアあの[#「あの」に傍点]女を知ってるのか。俺の狙《つ》けてる淫売だが」
「あれが僕の妻君さ」
私は何かに駈り立てられた。畜生! こいつを吃驚《びっくり》させてやれ!
「君、あいつは詐欺師なんだ。あいつは白金《プラチナ》を詐欺したんだ。……勿論君も知ってるだろう、大詐欺師の佐伯準一郎ね、ありゃアあいつの片割れなんだ」
刑事はじっ[#「じっ」に傍点]と聞き澄ましていた。
「捕縛したまえ。手柄になるぜ」
刑事は急に緊張した。だがすぐに揶揄的になった。
「君のような狂人の妻君に、あんな別嬪がなるものか。まあまあいいから帰りたまえ」
たくましい手をグイと延ばし、私の腕をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。
「お前、金は持ってるのか?」
「うん」と私は頷いて見せた。
「いくら[#「いくら
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