て寂しかった。夜は随分深かった。月が空にひっ[#「ひっ」に傍点]懸かっていた。靄が木間に立ち迷っていた。物の陰が淡く見えた。
 私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気はひどく[#「ひどく」に傍点]進んでいた。心臓の動悸、指頭《ゆびさき》の顫え、私は全然《まるで》中風のようであった。視力が恐ろしく衰えてしまった。そうして強度の乱視となった。五分と物が見詰められなかった。絶えずパチパチと瞬きをした。瞼の裏が荒れてしまった。
 誰も介抱してくれなかった。
 お母様! お母様!
 実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃! そこの実家! 誰とも逢わずに死ななければなるまい。
「もう一|呼吸《いき》だ。指先でいい。ちょっと背後《うしろ》から突いてくれ。死の深淵へ落ちることが出来る」
 私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。
「もう一呼吸だ。指先でいい」
 その時自動車の音がした。
 私は反射的に飛び上った。
 病院の方角から自動車が、こっちへ向かって駛《はし》って来た。私の眼前《めのまえ》を横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。デパートメントの主人であった。外妾を持っているということで新聞へ書かれた紳士であった。車内は桃色に明るかった。柔かいクッション、馨《かんば》しい香水、二人はきっと幸福なんだろう。顔を突き合わせて話していた。一瞬の間に過ぎ去った。月光が車葢《おおい》に滴っていた。タラタラと露が垂れそうだった。都会の空は赤かった。その方から警笛が聞こえてきた。
「もういい」と私は自分へ云った。
 最後の一突きが来たからであった。花壇を越して林があった。目掛けて置いた林であった。私はその中へ分け入った。
「ユダも縊《くび》れて死んだはずだ」
 木を選ばなければならなかった。木はみんな若かった。一本の木へ手を掛けた。幹へ額を押し付けた。ひやひやとして冷たかった。そうして大変滑らかだった。シーンと心が静まった。平和が心へ返って来た。
「脆そうな木だ。折れるかもしれない」
 もう一本の木へ手を触れた。
 その時私へ障るものがあった。誰かが肩を抑えたのであった。
 
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