うに釜へ移しに縁を廻って厨《くりや》へ行った。竈《かまど》の前へ片膝を突いて飯の煮えるのを待ちながらも手からは書物を放さなかった。武経七書を読んでいるのである。
紙の破れた格子窓からすぐに往来が見えていたが、その往来に佇《たたず》んで小鼓《こつづみ》を打っている者がある。麟太郎は書物から目を上げて音のする方を眺めて見た。銀のような白髪を背後《うしろ》で束《たば》ね繻珍《しゅちん》の帯を胸高に結んだ※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた老女がこっちを見ながら静かに鼓を調べている。その物腰が上品で乞食《ものもらい》の類とは見えなかった。麟太郎はしばらく耳を澄まして鼓の音色《ねいろ》に聞き入った。いらいらしている人の心へ平和と慰安とを与えようとして遙かの青空からでも来たようなまことに穏《おだや》かな音色であって、それを聞いている麟太郎の心は自然自然に柔らげられた。父の性格を受け継いで豪放濶達の彼ではあったが打ち続く貧困と饑餓のためにこの日頃心は平和を失い、読んでいる書物の文字の意味さえ呑み込めないまでになっていたが鼓の音色を耳にするや否や平和が立ち帰って
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