があった。
 彼の一家も饑饉《ききん》に祟《たた》られ、その日その日の食い扶持《ぶち》にさえ心を労さなければならなかった。その貧困のありさまは彼の日記にこう書かれてある。「予この時貧骨に到り、夏夜|無※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]《かやなく》、冬|無衾《きんなく》、ただ日夜机に倚《よ》って眠る。しかのみならず大母病気にあり、諸妹幼弱|不解事《ことをかいせず》、自ら縁を破り柱を割《さ》いて炊《かし》ぐ、云々」ところで父の左衛門太郎は馬術剣術の達人で気宇《きう》人を呑む豪傑ではあったが平常賭け事や喧嘩を好んで一向家事を治めなかったので一家の会計は少《わか》い麟太郎が所理《とりおこな》わなければならなかった。
 ある朝、麟太郎はいつものように破れた縁へ腰を掛け米の徳利搗《とっくりづ》きをやっていた。徳利搗きというのは他でもない。五合ばかりの玄米《くろごめ》を、徳利の中へ無造作に入れて樫《かし》の棒でコツコツ搗《つ》くのであって搗き上がるとそれを篩《ふるい》にかけその後で飯に炊《かし》ぐのであった。彼は徳利搗きをやりながらも眼では本を読んでいた。
 その朝も米を搗き終えるといつものよ
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