た。
 一尾の鯰《なまず》が掛かっていた。
 ポンと畚《びく》へ投げ込んだ。
「ところで何《ど》うだい、お前の方は? お袖《そで》と仲宜く暮らしているのか?」
 伊右衛門は斯う云って覗き込んだ。
「それがね、洵《まこと》に変梃《へんてこ》なんで」
 直助は此処で薄笑いをした。

       二

「変梃だって? 何《ど》う変なんだ?」
 伊右衛門は興味を持ったらしい。
「それ、お前《めえ》さんもご存知の通り、お袖《そで》の許婚《いいなずけ》は佐藤与茂七《さとうよもしち》、其奴《そいつ》を私が叩っ切り、敵《かたき》の目付かる其うち中、俺等《おいら》の所へ来るがいいと、斯う云ってお袖を連れて来たんでしょう。ところがお袖|奴《め》真《ま》に受けて、許婚の敵の知れる迄は、私に肌身を許さないそうで」
「やれやれ其奴《そいつ》はお気の毒だ。お前にしては気が長いな」
「短くしてえんだが成りそうもねえ」
「構うものか、腕力でやるさ」
「其奴《そいつ》だけは何《ど》うも出来そうもねえ」
「そりゃあ然《そ》うだろう、惚れてるからな」嘲笑《あざわら》うように鼻を鳴らした。「女を占めようと思ったら、決して此方《こっち》で惚れちゃあ不可《いけ》ねえ」
「お談義かね、面白くもねえ」直助はフイと横を向いた。「惚れねえ前なら其お談義、役に立つかもしれねえが、今の私にゃあ役立たねえね」
「じゃあ最《も》う一つ手段がある」
「へえ、もう一つ、聞かして下せえ」
「好む所に応ずるのよ」
「あっさり[#「あっさり」に傍点]していて解らねえ」
「いいか、お袖へ斯う云うのさ。敵を目付けた其上に、助太刀ぐらいはしてやるから、俺の云うことを聞くがいいとな」
「成程、大きに可《い》いかも知れねえ」
「逆応用という奴《やつ》さ」
「今夜あたり遣《や》っ付《つ》けるか」
「ところで何《ど》うだ、稼業の方は?」
「今年は何うやら鰻|奴《め》が、上方の方へでも引っ越したらしい。何処《どこ》を漁《あさ》っても獲物がねえ」
「じゃあ随分貧的だろう?」
「顔色を見てくれ、艶《つや》があるかね」
「お袖は何うだ? 顔の艶は?」
「それがさ、俺よりもう一つ悪い」
「つまり栄養不良だな」
「商売物だけは食わせられねえ」
「今夜だけ其奴《そいつ》を食わせてやれ」
「え、鰻をかい? 今夜だけね?」
「そうさ、精力が無かったら、色気の方だって起こるめえ」
「うん、こいつぁ金言だ」
「それ、金言という奴は、行う所に値打がある」
「よしよし今夜だけ食わせてやろう」
「そうだ、其処だよ、今夜だけ[#「だけ」に傍点]だ。明日になったら麦飯をやんな」
「麦飯なら毎日食っている」
「おお然《そ》うか、そいつぁ不可《いけ》ねえ。豆腐のから[#「から」に傍点]でも食わせるがいい」伊右衛門は此処でニヤリとした。「一旦手中に入れたからは、女は虐《いじ》めて虐め抜くに限る。そうすると屹度《きっと》従《つ》いて来る。手が弛《ゆる》むと逃げ出すぞ」
「悪にかけちゃあお前《めえ》が上だ」
「天井抜けの不義非道」
「首が飛んでも動いて見せるか」
「なにさ、良心を麻痺させる、だけよ」
 また釣棹が動き出した。
 グイと伊右衛門は引き上げた。
「や、南無三、餌《え》を取られた。……それは然《そ》うとオイ直助、今日は鰻は取れたのか?」
「うんにゃ」
 と直助は首を振った。「店で買って食わせる気だ」
「そんなに金があるのかえ?」
「金はねえが料《しろ》がある」懐中《ふところ》から櫛《くし》を取り出した。「先刻《さっき》下ろした鰻掻、歯先に掛かった黒髪から、こんな鼈甲《べっこう》が現われたってやつさ」
「おや」
 と伊右衛門は眼を見張った。「たしか其奴《そいつ》はお岩の櫛!」
「いけねえいけねえ」と懐中《ふところ》へ隠した。「ふてえ[#「ふてえ」に傍点]分けはご免だよ」
 のい[#「のい」に傍点]と直助は立ち上った。
「それじゃあ旦那、また逢おう」
 愉快な空想に耽り乍《なが》ら、直助は飛ぶように帰って行った。
 夕暮れがヒタヒタと迫って来た。
 遠景が仄《ほのか》に暈《ぼか》された。
 夜と昼との一線が来た。
「どれ棹を上げようかい」
 何か樋の口から流れ出た。
 菰《こも》を冠《かぶ》った板戸であった。
「覚えの杉戸」
 と伊右衛門は云った。
 手を板戸の角《すみ》へかけた。グーッと足下へ引き上げた。
 バラリと菰を刎《は》ね退《の》けた。
 お岩の死骸が其処にあった。
 肉が大方落ちていた。眉間が割れて血が出ていた。片眼が瘤《こぶ》のように膨れ上がっていた。
 と、死骸が物を言った。
「民谷《たみや》の血筋……伊藤喜兵衛が……根葉を枯らして……この身の恨み……」
 伊右衛門は高尚《ノーブル》に反問した。
「ははあ、白《せりふ》は夫《そ
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