隠亡堀
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)伊右衛門《いえもん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)直助|権兵衛《ごんべえ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「みっとも」に傍点]
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一
「伊右衛門《いえもん》さん、久しぶりで」
こう云ったのは直助《なおすけ》であった。
今の商売は鰻掻《うなぎかき》であった。
昔の商売は薬売であった。
一名直助|権兵衛《ごんべえ》とも呼ばれた。
「うん、暫く逢わなかったな」
こう云ったのは伊右衛門であった。
昔は塩谷家《えんやけ》の家来であった。
今は無禄の浪人であった。
「考えて見りゃあお前《めえ》さんは、私に執《と》っちゃあ敵《かたき》だね」
一向敵でも無さそうに、にやにや笑い乍《なが》ら直助は言った。
「洒落《しゃれ》かい、それとも無駄なのか」伊右衛門には興味も無さそうであった。「洒落にしちゃあ恐ろしい不味《まず》い。無駄にしちゃあ……いかにも無駄だ」
「でもね伊右衛門さん、そうじゃあ無いか。私の女房の姉というのは、四谷左門《よつやさもん》の娘お岩《いわ》、その左門とお岩とを、お前さんは文字通り殺したんだからね」
「そうとも文字通り殺したよ。お岩を呉《く》れろと云った所、左門|奴《め》頑固に断わったからな。それで簡単に叩《たた》っ切ったのさ」
「でも何《ど》うしてお岩さん迄?」
「うん、増花《ますはな》が出来たからよ」
「伊藤喜兵衛《いとうきへえ》のお嬢さんが、惚れていたとは聞いていたが」
「お梅《うめ》と云って別嬪《べっぴん》だった」
「お岩さんより可《よ》かったんだね?」
「第一若くて初心《うぶ》だったよ。子を産みそうな女ではなかった。玩具《おもちゃ》のような女だったよ」
「へへえ、そこへ打ち込んだんだね!」
「何しろお岩は古女房、そこへ持って来て子を産みやあがった。どうもね、女は子を産んじゃあ不可《いけ》ねえ。ひどく窶《やつ》れてみっとも[#「みっとも」に傍点]なくなる。肋骨《あばらぼね》などがギロギロする。尤《もっと》も金持の家庭なら、一人ぐらいは可《い》いだろう。産後の肥立が成功すると、体の膏《あぶら》がすっかり脱けて、却って別嬪になるそうだからな。ところが不幸にもあの時分、俺等《おいら》はヤケに貧乏だったものさ」
「でも、殺さずとも可《よ》かったろうに」
「ナーニ、手にかけて殺したんじゃあねえ。変な具合で自殺したんだ。尤も自分で死ななかったら、屹度《きっと》俺は殺したろうよ」
「恨死《うらみじに》に死んだんだね」
「お説の通りだ、恨死に死んだ」
「で、只今はお梅さんと、仲|宜《よ》くおくらしでござんすかえ?」
直助は古風に冷《ひや》かすように訊いた。
「何さ、お梅も喜兵衛|奴《め》も、婚礼の晩に叩っ切って了《しま》った」
伊右衛門は斯《こ》う云うと苦笑した。
「お梅は何《ど》うでも可《よ》かったが、持参金だけは欲しかった。伊藤の家庭と来たひにゃあ、時々蔵から小判を出して、錆《さび》を落とさなけりゃあならねえ程、うんとこさ金があったんだからなあ」
「だが何《ど》うして殺したんで?」
「時の機勢《はずみ》という奴さ」伊右衛門はひどく冷淡に「お梅の顔がお岩に見え、喜兵衛の顔が小仏小平《こぼとけこへい》、其奴《そいつ》の顔に見えたのでな、ヒョイと刀を引っこ抜くと、コロコロと首が落ちたってものさ」
「ははあ、其奴ぁお岩さんの怨《うらみ》だ」
「世間でもそんなことを云っていたよ」
「でお前さんは何《ど》う思うので?」
「何《ど》う思うとは何を何《ど》う?」
「幽霊が恐くはありませんかね?」
「それより俺は斯《こ》う云い度《た》いのさ。人間の良心というものは、麻痺させようと思えば麻痺出来るとな」
鳥渡《ちょっと》直助には解らなかった。
二人は暫く黙っていた。
此処《ここ》は砂村《すなむら》隠亡堀であった。
一所《ひとつところ》に土橋がかかっていた。その下に枯蘆《かれあし》が茂っていた。また一所に樋《ひ》の口があった。枯れた苔《こけ》が食《く》っ付《つ》いていた。
前方《まえ》はドロンとした堀であった。さあ、確に鰻は居そうだ。
土手の背後《うしろ》に石地蔵があった。鼻が半分欠けていた。慈悲円満にも見えなかった。
土手の向うは田圃であった。
稲村が飛び飛びに立っていた。
それは曇天の夕暮であった。
茶がかった[#「がかった」に傍点]渋い風景であった。
芭蕉《ばしょう》好み、そんな景色だ。
伊右衛門の前には釣棹《つりざお》が、三本が所下ろされてあった。
その一本がピクピクと揺れた。
「ああ出来た」
と直助が云った。
で、伊右衛門は上げてみ
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