》れだけで?」
お岩の片眼が大きくなった。
三
「もう是《これ》で三回目だ」
伊右衛門は却って気の毒そうに言った。「実際幽霊というような物も、一回目あたりは恐ろしいよ。二回目となると稀薄になる。三回も出られると笑い度《た》くなる。お岩さん不量見は止《や》めたがいい。四回も出ると張り仆《たお》すぜ。五回出ようものなら見世物にする。……」
クルリと板戸を翻えした。
一杯に水藻を冠っていた。
「俺には大概見当が付く、水藻を取ると其下に、小平の死骸があるだろう。生前間男の濡衣《ぬれぎぬ》を着せ、――世間へ見せしめ、二人の死骸、戸板へ打ち付け、水葬礼――ふん、そいつ[#「そいつ」に傍点]にしたんだからなあ。だって小平が宜《よ》くねえからよ。主人の病気を癒《なお》すは可《い》いが、俺の印籠を盗むは悪い」
ダラダラと水藻を払い落とした。
果たして小平の死骸があった。
死骸はカッと眼を剥《む》いた。
「お主《しゅ》の難病……薬下せえ」
「うんにゃ」
と伊右衛門はかぶり[#「かぶり」に傍点]を振った。
「俺は要求を拒否するよ。俺にだって薬は必要だからな」
足を上げて板戸を蹴った。
死骸がバラバラと白骨になった。
「手品としては不味《まず》くない。だがね。恐怖を呼ぼうとするには、もう一段の工夫が入《い》る」
突然鬼火が燃え上った。
伊右衛門は刀へ手を掛けた。いやいや抜きはしなかった。
剛悪振りを見せようとして、グイと落差にした迄であった。
「ふんだん[#「ふんだん」に傍点]に燃やせよ、焼酎火をな」
非常にゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]した足取りで、伊右衛門は町の方へ帰って行った。
後はシーンと静《しずか》であった。
と、堀から人声がした。
「伊右衛門は度胸が据わったねえ」
それは女の声であった。
「困ったものでございます」
それは男の声であった。
板戸の上下で話しているらしい。
お岩と小平の声らしい。
「さあ、是から何《ど》うしよう」
「ああも悪党が徹底しては、どうすることも出来ません」小平の声は寂しそうであった。
「恐がらないとは不思議だねえ」お岩の声も寂しそうであった。
水面に板戸が浮かんでいた。
闇が其上を領していた。
死骸の声は沈黙した。
手近で鷭《ばん》の羽音がした。
「こうなっちゃあ仕方が無いよ。迚《とて》も無理には嚇《おど》せないからね」お岩の声は憂鬱《ゆううつ》であった。
「あべこべ[#「あべこべ」に傍点]に私達が嚇されます」小平の声も憂鬱であった。
「ねえ小平さん」
とお岩の声が云った。「もう祟《たた》るのは止めようよ」
「止むを得ませんね、止めましょう」
お岩の声が恥しそうに云った。
「妾《わたし》、そこでご相談があるの。……濡衣を真実《ほんと》にしましょうよ」
「え」と云った小平の声には、寧《むし》ろ喜びが溢れていた。「あの、それでは、私達二人が」
「そうよ、夫婦になりましょうよ」
「大変結構でございまする」
「これには伊右衛門も驚くだろうね」
「こんな事でもしなかったら、彼奴《あいつ》は吃驚《びっく》りしますまい。……だが最《も》う私達は伊右衛門のことなど、これからは勘定に入れますまい」
此処で声が一時止んだ。
骨の軋《きし》む音がした。
板戸を隔てた二つの死骸がどうやらキッスをしたらしい。
ユラユラと板戸は動き出した。
「嬉しいのよ、小平さん」
「ああ私も、お岩さん」
ユラユラと板戸は流れ出した。
南無幽霊頓生菩提《なむゆうれいとんしょうぼだい》!
お岩さんとそうして小平さん、
彼等は正《まさ》しく成仏した。
下流の方へ流れて行った。
鬼火だけが燃えていた。
真暗の夜を青い顔をして、上下左右に躍っていた。
何を一人で働くのだ。
消えろ消えろ! とぼけた[#「とぼけた」に傍点]鬼火だ!
幕の閉じたのを知らないのか。
底本:「怪奇・伝奇時代小説選集2」春陽文庫、春陽堂書店
1999(平成11)年11月20日第1刷発行
初出:「大衆文藝」
1926(大正15)年6月
入力:阿和泉拓
校正:noriko saito
2007年11月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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