づいて「わッ」という悲鳴が聞こえ、さらに逃げてでも行くらしい、けたたましい足音が聞こえましたが、またもや「わッ」という悲鳴が聞こえ、その後は寂然《しん》となってしまいました。
(凄《すご》いな。三人|殺《や》った! 彼奴《きゃつ》だ!)
とわたしは走って行きました。
そうして間《ま》もなくわたしは、厳重な旅の仕度をし、黒い頭巾で顔をつつんだ、鶴吉と呼ぶ例の男と、木立ちの中で刀を構えていました。そうですわたしも竹杖《たけづえ》仕込みの刀を、ひっこ抜いて構えたのです。
わたしたちの足許にころがっているのは、三人の武士の死骸《しがい》でした。みんな一太刀で仕止められていました。
(凄い剣技《てなみ》だ、油断するとあぶない)
わたしは必死に構えました。
と、鶴吉は月の光で、わたしの姿を認めたらしく、
「なんだ、貴様、乞食ではないか。……しかし、……本当の乞食ではないな。……宣《なの》れ、身分を!」
「そういう貴様こそ身分を宣れ! 庄内川からこの屋敷へ、大水《たいすい》を取り入れるために作り設けた、取入口を探ったり、行き倒れ者に身を※[#「にんべん+悄のつくり」、第4水準2−1−52]《やつ》して、船大工の棟領持田の家へはいり込み、娘をたぶらかして秘密を探ったり、最後にはこの屋敷へ忍び入り、現場を見届けようとしたり……」
「黙れ! 此奴《こやつ》、それにしてもそこまで俺の素性を知るとは?……さては、汝《おのれ》は、……もしや汝は※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「…………」
「隠密《おんみつ》ではないかな? どこぞの国の?」
「…………」
「ものは相談じゃ、いや頼みじゃ、同じ身分のものと見かけ、頼む見遁《みのが》してくれ」
八
「礼には何をくれる」わたしはこう言ってやりました。
「ナニ礼だと、礼がほしいのか?」
「ただで頼《たの》まれてたまるものか」
「なるほどな、もっともだ。……かえって話が早くていい。……何がほしい、なんでもやる。」[#「何がほしい、なんでもやる。」」は底本では「何がほしい、なんでもやる。」]
「調べた秘密をこっちへ吐き出せ」
「…………」
「抑《おさ》えた材料《ねた》を当方へ渡せ」
「…………」
「江戸まで連れて逃げようとする生き証拠を俺の手へ返せ」
「チェッ、要求《のぞみ》はそれだけか」
「もう一つ残っている」
「まだあるのか、早く言え!」
「汝《おのれ》この場で消えてなくなれ」
「ナ、なんだと?」
「汝《おのれ》に生きていられては都合が悪いと言っているのだ」
疾風迅雷とでも形容しましょうか、怒りと憎悪《にくみ》とで斬り込んで来た、鶴吉の刀の凄《すさま》じかったことは! あやうく受け流し、わたしは木立ちの中へ駈け込みました。そのわたしを追いかけて来る、鶴吉の姿というものは、さながら豹《ひょう》でしたよ。
(駄目だ)とわたしは観念しました。(俺の手では仕止められない)
松の木を盾として、鶴吉の太刀先を防ぎながら、わたしは大音に呼びました。
「お屋敷の方々お出合い下され、江戸|柳営《りゅうえい》より遣《つか》わされた、黒鍬組《くろくわぐみ》の隠密が、西丸様お企《くわだ》ての秘密を探りに、当屋敷へ忍び込みましてござる! 生かして江戸へ帰しましては、お家の瑕瑾《かきん》となりましょう! 曲者はここにおりまする、お駈けつけ下され!」
声に応じて四方から、おっ取り刀のお侍さんや、鋸《のこぎり》や槌《つち》を持った船大工の群れが、松明《たいまつ》などを振り照らして、わたしたちの方へ駈けつけて来ました。その先頭に立っておりましたのが、西条勘左衛門様でございましたので、
「あなた様の太刀先をひっ[#「ひっ」に傍点]外《ぱず》して、庄内川へ飛び込んだ男が、隠密の此奴《こやつ》でございます。川がないから大丈夫で。今度こそお討ちとりなさりませ」
「そういう貴様《きさま》は……や、いつぞやの晩……」
「あれは内証《ないしょ》にしておきましょうよ。お味方同志でございますから」
言いすてるとわたしはお屋敷の建物の方へ、一散に走って行きました。
やるべき仕事をやってしまうと、わたしは引っ返して来ました。屋敷の門が開《あ》いていました。で、わたしは走り出ました。
何が門外にあったでしょう?
東側の小門から、小半町ほどはなされている林の中から、人声が聞こえ、松明《たいまつ》の火が射しているのです。
わたしはそっちへ走って行きました。
そこでわたしの見たものといえば、垂《たれ》を下《さ》げた一梃《いっちょう》の駕籠《かご》の前に、返り血やら自分の血やらで、血達磨《ちだるま》のようになりながら、まだ闘士満々としている、精悍《せいかん》そのもののような鶴吉が、血刀を右手にふりかぶり、左手を駕籠の峯へかけ、自分の前に集まっている尾張藩の武士や、持田八郎右衛門の弟子の、大勢の船大工たちを睨《にら》んでいる、凄愴《せいそう》とした光景でした。
「かかれ、汝等《おのれら》、かかったが最後だ!」
と、嗄《しわが》れた声で、鶴吉は叫びましたっけ。
「かかったが最後駕籠の中の女は、俺が一刀に刺し殺す!……持田八郎右衛門の娘を殺す! かかれたらかかれ!」
船大工たちは口惜しそうに、口々に詈《ののし》りました。
「畜生、鶴吉!」
「恩知らず!」
――しかし棟領の秘蔵の娘を、人質にとられているのですから、かかって行くことはできませんでした。西条様はじめお侍さんたちも、刀を構えて焦心《あせ》っているばかりで、どうすることもできませんでした。というのは持田八郎右衛門は、船大工の棟領とはいいながら、立派な藩の御用番匠《ごようばんしょう》であり、ことには西丸様の今度のお企ての、大立物でありますので、その人の娘にもしも[#「もしも」に傍点]のことがあったら、一大事だと思ったからで。
しかしわたしは遠慮しませんでした。大声で言ってやりました。
「今だ、お小夜坊《さよぼう》、やっつけな!」
九
途端に「あッ」という悲鳴が起こり、刀をふりかぶったまま、鶴吉は躰《からだ》を捻《ねじ》りましたが、やがて、よろめくと、ドット倒れました。脇腹《わきばら》から血が吹き出しています。
「わーッ」という声が湧《わ》き上がりましたが、これは船大工や藩士の方々が、思わずあげた声でした。でもその声はすぐに止《や》んで、気味悪くひっそりとなってしまいました。
血にぬれた懐剣をひっさげて、駕籠の垂《た》れを刎《は》ねてお小夜坊が、姿を現わしたからです。
お小夜坊ではなくてお柳《りゅう》でした。
はじめて人を斬ったのでした。お柳の顔色はさすがに蒼《あお》く、その眼は血走っておりましたが、それだけにかえって凄艶《せいえん》で、わたしとしましてはお柳という女を、この時ほど美しいと思ったことは、ほかに一度もありませんでした。お柳はわたしを見やってから、船大工たちへ言いましたっけ。
「皆様ご安心なさいまし、お小夜様は妾《わたし》がお助けして、この林の奥の、藪蔭にお隠しして置きました」
歓喜の声をあげて、船大工たちが林の奥へ走って行ったのは、いうまでもないことでございます。その間に西条様や藩士の方々は、鶴吉の息の根を止めようとしました。でもわたしは制止しました。
「どうせ死んで行く人間です、静かに死なせてやって下さい」
見れば鶴吉は断末魔に近い眼を、わたしの眼へヒタとつけて、物言いたげにしておりました。そこでわたしは近寄って行って、耳に口を寄せてささやきました。
「言いたいことがあるなら言うがいい」
「乞食に計られて死んだとあっては、オ、俺《おれ》は死に切れぬ。頼む、明かしてくれ、お前の素性を」
「もっともだ、明かすことにしよう。……尾張家の附家老《つけがろう》、犬山の城主、成瀬隼人正《なるせはやとのしょう》の家臣、旗頼母《はたたのも》、それが俺だ」
ここで私は言葉を改め、「貴殿のご姓名なんと申されるかな?」
「…………」無言で首を振るのでした。
「隠密として事破れし以上、姓名は言わぬというお心か。ごもっともでござる」
この時突然屋敷内から、火の手が立ち昇りました。
「火事だ!」
「大変だ、作事場《さくじば》が燃える!」
人々は叫んで走って行きました。
「鶴吉殿」と耳に口を寄せ、またわたしはささやきました。
「貴殿をこの地へ遣《つか》わした、そのお方が心にかけられた、宗春様ご建造の禁制の大船、ただ今燃えておりまする。貴殿のお役目遂げられたも同然、お喜びなされ、ご安心なされ!」
「火事?……大船が?……燃えている?」
「拙者が放火《つけび》いたしたからでござる」
「貴殿が……お身内の貴殿が?」
「われらが主君成瀬隼人正、西丸様お企てを一大事と観じ、再三ご諫言《かんげん》申し上げたれど聞かれず、やむを得ず拙者に旨を含め……」
この時船大工たちがお小夜様を連れて、林の奥から出て来ました。
「お柳、お小夜様を、鶴吉殿へ!」
わたしの相棒のお柳は、お小夜様の手を取って、鶴吉の側へ連れて行きました。お小夜様は恐怖《おそろしさ》と悲哀《かなしさ》とで、生きた空もないようでございましたが、でもベッタリと地へすわると、鶴吉の項《うなじ》を膝の上へのせ、しゃくり[#「しゃくり」に傍点]上げて泣きました。鶴吉を愛していたのですねえ。
宗家相続の問題以来、将軍吉宗様《はちだいさま》と尾張家とは、面白くない関係《あいだがら》となりまして、宗春様が年若の御身《おんみ》で、早くご隠居なされましたのも、そのためからでございますし、ご禁制の大船を造られましたのも、吉宗様《はちだいさま》に対する欝忿《うっぷん》晴らし、そのためだったように思われます。そのご禁制の大船ですが、もうあの時には九分がたできていて、立派なものでございました。ご主君から渡された竹筒仕込みの地雷で、わたしが焼き払いさえしなかったなら、完成したに相違ございません。庄内川から取り入れた水を、すぐに船渠《せんきょ》へ注ぎ入れ、まず庄内川へ押しいだし、それから海へ出すように、巧みに仕組まれてもおりました。
勢州《せいしゅう》産まれの乞食《こじき》権七《ごんしち》、そんなものにまで身を※[#「にんべん+悄のつくり」、第4水準2−1−52]《やつ》し、尾張家のためとはいいながら、あの立派な船を焼きはらったことは、もったいなく思われてなりません。
底本:「日本伝奇名作全集4 剣侠受難・生死卍巴(他)」番町書房
1970(昭和45)年2月25日初版発行
初出:本全集収録まで未発表
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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