「そう、あの男もこんなように、貴郎様の太刀先をのがれましたねえ」
「乞食め!」
 と西条様はわたしの背を目がけ、斬りおろしました。
 それを掻《か》いくぐって左へ飛び、
「ここに庄内川がありましたら、わたしもあの男のように川へ飛び込んで、のがれることでございましょうよ。……それにしても惜しいものだ、乞食にばかりこだわらずに、素直に私という人間の言葉を聞いて、持田さんあたりを調べたら、たいした功が立てられるのに……」
 言いすててわたしは露路の一つへ駈《か》けこみましたっけ。
 庄内川の岸で、職人風の男を討ちそこなって逃がし、西丸様からお叱りを受け、どうあろうとその男をさがし出し、討ってとれとの厳命を受け、さがし廻っているがわからない。そのムシャクシャしている腹の中へ、グッと棒でも突っ込んだように、わたしの言葉がはいったのですから、わたしに対する憎しみは烈しく、あくまでも斬りすてようと、わたしの後《あと》を追って、西条様が、露路へ駈け込んで来たのは、当然のことかと存ぜられます。でも露路には枝道《えだみち》が多く、こみいっておりましたので、わたしがどこへかくれたか、西条様にはわからなかったようです。
 その西条様がぼんやりした様子で、一軒の家の前に佇んだのは、それから間もなくのことでした。
 平家《ひらや》だての格子づくりの、粋《いき》な真新しい家の前でした。
 と、格子戸の奥の障子が、土間をへだてて明るみ、やがて障子が開き行燈《あんどん》をさげた仇《あだ》っぽい女が、しどけない姿をあらわしました。睫毛《まつげ》の濃い大型の眼、中だるみ[#「だるみ」に傍点]のない高い鼻、口はといえばこれも大型でしたが、受け口めいておりましたので、色気にかけては充分でした。空《あ》いている左手を鬢《びん》へ持って行き、女のくせで、こぼれている毛筋を、掻《か》きあげるようにいたしましたが、八口《やつくち》や袖口から、紅色がチラチラこぼれて、男の心持を、迷わせるようなところがありました。及び腰をして格子戸の方を隙《す》かし、
「どなた、宅にご用?」
 と、含みのある水っぽい声で言ったものです。
「いや」
 と西条さんは狼狽《ろうばい》したような声で、
「狼藉者《ろうぜきもの》が入り込んだのでな」
「狼藉者? 気味の悪い……どのような様子の狼藉者で?」
「乞食じゃよ、穢《きた》ない乞食じゃ」
「お菰《こも》さん、おやおや……お菰さんでございましたら、もうこの辺へは、毎日のように、いくらでも立ち廻るのでございますよ」
「それが怪《け》しからん乞食でな」
「旦那様に失礼でもなさいましたので?」
「うむ、まあ、そういったことになる」
「息づかいがお荒うございますのね。お水《ひや》でも……」
「水か、いや、それには及ばぬ」
「ではお茶でも、ホ、ホ」
 その女は、プリプリしているお侍さんを、からかってやろうというような様子を、見せはじめましてございます。
「戸じまりなど充分気をつけるがよいぞ」
 西条様はテレかくしのように言って、歩き出されました。
 女は持田様の女中お柳でございました。そうしてそのお柳は少したったのちには、この家の奥の茶の間にすわって、丹前《たんぜん》を着た三十五、六の、眼の鋭い、口元の締まった武士と、砕けた様子で話していました。長火鉢の横には塗り膳があって、それには小鉢物がのせてあり、燗《かん》徳利などものせてあるという始末で。お柳がその男を旗さんと呼んだり、頼母《たのも》さんと呼んだりするところを見ると、それがその男の姓名であり、二人の間柄は、情夫情婦のようでありました。
 そうして、その旗頼母《はたたのも》という武士こそ、勢州《せいしゅう》と呼ばれているこの乞食の私なのでございます。どうして武士の私が乞食などになっているかと申しますに、ある重大な計画の秘密を探るためなので。つまり私は乞食に身を※[#「にんべん+悄のつくり」、第4水準2−1−52]《やつ》して隠密をしているのでございます。庄内川の岸に寝ていたのも、持田家の周囲を立ち廻ったのも、そのためなので。それにしてもどうして露路へ逃げ込んだ私が、そんな家で、お柳と、取膳で、酒など飲んでいたのかと申しますに、私は、露路へ逃げ込むや、その家――それは私の隠れ家なのですが、その家の前のしもた家の蔭に隠れて、お柳と西条様との会話《はなし》を聞いていたのでしたが、西条様が立ち去るやすぐに私は、自分の家の裏口から台所へはいって行き、持田家の秘密を探らせるために、持田家へ、女中として入り込ませておいたお柳が、持田家の秘密を持って、この夜来合わせていたのに手伝わせ、乞食の衣裳を脱ぎ、行水を使い、茶の間で、そんなように、取膳で……と、いうことになったのでありまして、さてそれからは、私とお柳との会話《はなし》になるのでございます。――
「今夜は泊まって行ってもいいのだろう」これは私で。
「というわけにもいかないのさ。……何しろお嬢様があんなだからねえ」
「惚れるのに事を欠いて、あんな野郎に惚れるとはなア」
「鶴吉と宣っているあの江戸者、女にかけちゃア凄いものさ」
「そこへもって来てお小夜坊《さよぼう》が、初心《うぶ》の生娘《きむすめ》ときているのだからなあ」
「ころりと参って無我夢中さ」
「駆け落ちの相談ができ上がったとは、呆《あき》れ返って話にもならない」
「世間知らずの娘だからだよ」
「男の素性に気もつかずか」
「男の心にも気がつかずさ」
「まったくそうだ、だから困るのさ。本当の恋からの所業《しわざ》ならいいのだが、そうでないのだから恐ろしい」
「江戸へうまうま連れ出されてから、どうされるかってこと、知らないんだからねえ」
「生き証拠にされるってこと、ご存知ないからお気の毒さ」
 お柳の注いだ猪口《ちょこ》を私は口へ持って行きました。

      六

「駆け落ちの日にち[#「日にち」に傍点]と刻限とに、間違いがあっちゃア大変だが」
「今日から五日後の子《ね》の刻さ。たしかめておいたから大丈夫だよ」
「お前《めえ》も従《つ》いて行くんだったな」
「そうさ途中までお見送りするのさ。お嬢様は可愛らしいよ、何から何まで、妾《わたし》にだけはお明かしなさるのだから」
「そこがこっちのつけめ[#「つけめ」に傍点]なのだが……それにしても鶴吉というあの男、お小夜坊ばかりを連れ出して、それで満足するような、優しい玉とは思われないが」
「これまでにお嬢様の手を通して、いろいろの物を引きだしたらしいよ」
「証拠になるような品をだろう」
「ああそうさ、証拠になるような品さ」
「ところで職場の仕事だが、どうだな、はかどっているようかな」
「それだけは妾にもわからないのさ。こしらえた端《はし》から化け物屋敷の方へ、こっそり運んで行くのだからねえ」
「そういうことは鶴吉って男も、とうに知っているだろうに、化け物屋敷を調べないとは、どうにも俺には腑《ふ》におちないよ」
「これから調べるのかもしれないじゃアないか」
「そうよなア、そうかもしれない……駆け落ちの前にか、駆け落ちの夜にかな」
 私は背後《うしろ》の地袋《じぶくろ》を開け、木箱を取り出し、その中から太い竹の筒を取り出しました。
「こいつ湿らせちゃア大変だ」
「変な物だねえ、何なのさ?」
「いってみりゃア地雷火さ。普通にゃ落火《らっか》というが」
「地雷火? まア、気味の悪い……どうしてお前さんそんなものを?」
「お殿様から下げ渡されたのさ」
「お殿様って? どこのお殿様?」
「殿様に二人あるものか。俺等《おいら》のご主君は犬山の御前さ」
「それじゃア成瀬様《なるせさま》から。……でも、成瀬様がそんな恐ろしいものを……」
「いよいよの場合には火をかけろってね、俺等前もって言いつけられているのさ」
 この時露路のあちこちで、犬が吠《ほ》え出しましてございます。私は竹筒を木箱の中へ納め、また地袋の中へ押し入れて、犬の吠え声に耳をかしげましたが、「あらかた話は済んだらしいな。それじゃア……」
「何がさ」
「隣の部屋に紅裏《もみうら》の布団が敷いてあるってことさ」
「ばからしい、……わたしゃア小母様が病気だから、ちょっと見舞いに行って来るといって、お暇をいただいて来たんだよ」
「ありもしない小母様に病気をさせて、情夫《おとこ》に逢いに来るなんて、隅に置けない歌舞伎者《かぶきもの》さ」
「その歌舞伎者で心配になったよ。行き倒れ者に自分を仕組んで、持田様へ抱《かか》え込まれ、ずるずるべったりに居ついてしまって、お嬢様をたらしたあの鶴吉、わたしの居ない間に、二番狂言でも仕組んで、わたしたちを出し抜きゃアしないかとねえ」
「それじゃアすぐに帰る気か」
「どうしよう」
「じらすのか。……それともじれているのか……」
「あれ、痛いよ」
 見る眼に痛い絵模様となりましたので……。

      七

 相変らず菰をかむり、竹の杖をつき、面桶《めんつう》を抱《かか》えた、乞食のわたしが、庄内川の方へ辿って行きましたのは、それから五日後の夜のことでした。
 化け物屋敷の前まで来ました。
 一|町四方《ちょうしほう》もある、宏大なお屋敷は、樹木と土塀とで、厳重に囲《かこ》まれておりまして、外から見ますると、内部《なか》の建物《たてもの》は、家根さえ見えないほどなのでございます。
 しばらくわたしは土塀について、お屋敷の周囲をまわりました。と、東側の小門《こもん》から小半町《こはんちょう》ほど距たった辺に、こんもりした林がありました。それをわたしは眺めやりましたが(あれ[#「あれ」に傍点]に任《ま》かせて置けば大丈夫さ)と、こう心中で思いまして、そのまま先へ進んで行きました。足場のよいところまでやって来ました。そこでわたしは木立へ登り、そこから土塀の頂《いただき》へ登り、お屋敷の構内へ飛び下りました。構内の土塀近くに茂っているのは、松や楓《かえで》や槇《まき》や桜の、植え込みでございました。
(塀外の木立ちと高い厚い土塀と、そうして内側のこの植え込みとで、こう厳重に鎧《よろ》われたんでは、屋敷内で何を企てようと、外からは見えもしなければ聞こえもしない。ましてその上に化け物屋敷などという、気味の悪い噂を立てておいたら、近寄ろうとする人はないだろう。)[#「近寄ろうとする人はないだろう。)」は底本では「近寄ろうとする人はないだろう。」]
 そんなことをわたしは思いながら、植え込みをわけて進んで行きました。と行く手から大勢の人声や、物を打つ音や物を切る音やが、潮の遠鳴りのように聞こえ、燈《ひ》の光なども見えて来ました。不意にその時人声が、此方《こなた》へ近づいて参りましたので、わたしは藪《やぶ》蔭へ身をかくしました。
「見慣れない奴でありましたよ」
「外から忍び込んだ人間らしい」
「どうあろうとさがし出して捕えねば……」
 それは二人のお侍さんでした。
「居た!」
 とその中の一人が、わたしを目付けて叫び、手取りにしようとしてか組みついて来ました。(やむを得ない)と思って、わたしは竹の杖を突き出しました。もちろん急所へあて[#「あて」に傍点]たんで。かすかに呻き声をあげたばかりで、そのお侍さんは倒れてしまいました。
「曲者《くせもの》!」
 この人は斬り込んで来ました。
 でもその人も倒れてしまいました。
 わたしの突き出した竹の杖が、うまく鳩尾《みぞおち》へはまった[#「はまった」に傍点]からで。
(ナーニ半刻《はんとき》のご辛棒で。自然と息を吹き返しまさあ)
 わたしは先へ進んで行きました。
 でもわたしは気が気ではありませんでした。あの鶴吉という男が、わたしのように土塀を乗り越えて、屋敷内にはいり込んだということは、わたしにはわかっておりましたが、愚図愚図しているうちに目的を遂げて、この屋敷から脱け出されたら、一大事と思ったからです。
 わたしは先へ進んで行きました。
 すると「誰だ!」という声が起こり、つづいて「わッ」という悲鳴が起こり、すぐに「曲者!」と喚《わめ》く声が聞こえ、つ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング