怪しの者
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)靄《もや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)先々代|継友卿《つぎともきょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+悄のつくり」、第4水準2−1−52]《やつ》して
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一
乞食の権七が物語った。
尾張の国春日井郡、庄内川の岸の、草の中に寝ていたのは、正徳三年六月十日の、午後のことでありました。いくらか靄《もや》を含んでいて、白っぽく見えてはおりましたが、でもよく晴れた夏の空を、自分の遊歩場《あそびば》ででもあるかのように、鳶《とび》が舞っておりましたっけ。
ふと人の気勢《けはい》を感じたので、躰《からだ》を蔽《おお》うている草の間から、わたしはそっちを眺めました。
二十八、九歳の職人風の男が、いつのまにやって来たものか、わたしのいるところから数間《すうけん》はなれた岸に、佇んでいるではありませんか。(はてな?)とわたしは思いながら、その男の視線を辿って行きました。岸に近い水面を睨んでいました。そこでわたしも水面を見ました。
(成程、これじゃア誰だって、眼をつけるだろうよ)
と、わたしは呟きましたっけ。この川(幅三十間といわれている庄内川)は、周囲にひろがってい、広漠《ひろびろ》とした耕地一帯をうるおす、灌漑《かんがい》用の川だったので、上流からは菜の葉や大根の葉や、藁屑《わらくず》などが流れて来ていましたが、どうでしょう、流れて来たそれらの葉や藁屑が、その男の立っている辺まで来ますと、緩《ゆる》く渦《うず》をまき、躊躇《ちゅうちょ》でもするように漂ったあげく、沈んでしまうではありませんか。(あれへ眼をつけるあの野郎こそ怪しい)
と、私といたしましては、職人風の男へかえって不審を打ったのでございます。
(只者じゃアない、うろんな奴だ)
私は考えに沈みながら、広い耕地を見やりました。野菜の名産地の尾張城下の郊外です、畑という畑には季節《とき》の野菜が、濃い緑、淡い緑、黄がかった緑などの氈《かお》を敷いておりましたっけ。人家などどこにも見えず、百姓家さえ近所にはありませんでした。いやたった一軒だけ、数町はなれた巽《たつみ》の方角に、お屋敷が立っておりましたっけ。それも因縁づきのお屋敷が。……尾張様の先々代|継友卿《つぎともきょう》が、お家督《よつぎ》の絶えた徳川|宗家《そうけ》を継いで、八代の将軍様におなりなさろうとしたところ、紀伊様によって邪魔をされて、その希望《のぞみ》が水の泡と消え、紀伊様が代わって将軍家になられた。当代の吉宗《よしむね》卿で。……その憂欝《ゆううつ》からお心が荒《すさ》み、継友様には再三家臣をお手討ちなされましたが、その中に、平塚刑部様という、御用人があり、生前に建てた庄内川近くの別墅《やしき》へ、ひどく執着を持ち、お手討ちになってからも、その別墅へ夜な夜な姿を現わされる。――という因縁づきのお屋敷なので。
(流れ屑が自然《ひとりで》に沈む淵があったり、化け物屋敷があったりして、この界隈《かいわい》は物騒だよ)と、私は呟《つぶや》いたことでした。
二
(おや)と驚いて川添いの堤へ眼をやったのは、それから間もなくのことでした。野袴《のばかま》を穿《は》き、編笠《あみがさ》をかむった、立派なみなりのお侍様五人が、半僧半俗といったような、円《まる》めたお頭《つむ》へ頭巾《ずきん》をいただかれ、羅織《うすもの》の被風《ひふ》をお羽織りになられた、気高いお方を守り、こなたへ歩いて来るからでした。
(これは大変なお方が来られた)
こうわたしは呟《つぶや》きましたが、半僧半俗のそのお方が、前《さき》の尾張中納言様、ただ今はご隠居あそばされて、無念坊退身《むねんぼうたいしん》とお宣《なの》りになり、西丸に住居しておいであそばす、徳川宗春様であられるのですから、驚いたのは当然でしょう。
と、宗春様はお足をとめられ、何やら一人のご家来に向かい、ささやかれたようでございました。するとそのご家来は群れから離れ、職人風の男の側《そば》へ寄って来ましたが、
「これ其方《そち》そこで何をしておる」と、厳《いか》めしい口調で申されました。
「川を見ているのでございますよ」そう職人風の男は申しましたっけ。
「川に何か変わったことでもあるのか」
「いいえそうではございませんが。所在なさに見ていますんで」
「所在ない? なぜ所在ない」
「わたしは大工なのでございますが、親方のご機嫌をとりそこなって、職を分けてもらうことができなくなったんで。……どうしたものかと、思案しいし
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