怪しの館
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)誘拐《かどわか》す

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)終夜|紙魚《しみ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)武士はそっけ[#「そっけ」に傍点]ない。
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        一

 ここは浅草の奥山である。そこに一軒の料理屋があった。その奥まった一室である。
 四人の武士が話している。
 夜である。初夏の宵だ。
「どうでも誘拐《かどわか》す必要がある」
 こういったのは三十年輩の、いやらしいほどの美男の武士で、寺侍かとも思われる。俳優といってもよさそうである。衣裳も持ち物も立派である。が、寺侍でも俳優でもなく、どうやら裕福の浪人らしい。
「どうして誘拐いたしましょう?」
 こうきいたのは三十二、三の武士で、これは貧しい浪人らしい。左の小指が一本ない。はたしあいにでもまけて切られたのだろう。全体が卑しく物ほしそうである。
「そこはお前達工夫をするさ」
 美男の武士はそっけ[#「そっけ」に傍点]ない。
「どうしたものかの?」
 と小指のない武士は、一人の武士へ話しかけた。誘拐の相談をしたのである。
「さればさ」
 といったのは、二十八、九の、これも貧しげで物ほしそうで、そうして卑しげな浪人であったが、頤にやけど[#「やけど」に傍点]のあとがあった。「姿をやつして立ち廻り、外へ出たところをさらうがよかろう」
「駄目だ、駄目」
 と抑えたのは例の美男の武士であった。
「期限があるのだ、誘拐の期限が。それを過ごすと無駄になる。外へ出たところをさらうなどと、悠長なことはしていられない。今夜だ、今夜だ、今夜のうちにさらえ」
「では」
 といったのはもう[#「もう」に傍点]一人の武士で、四十がらみで薄あばたがあり、やはり同じく浪人と見え、衣裳も大小もみすぼらしい。
「ではともかくも姿をやつし、屋敷の門前を徘徊し、様子を計って忍び込み、何んとか玉を引き上げましょう」
「それがよかろう。ぜひに頼む」――美男の武士はうなずいた。「しかし一方潜入の方も、間違いないように手配りをな」
「この方がかえって楽でござる」こういったのはやけど[#「やけど」に傍点]のある武士で、「人殺し商売は慣れておりますからな」
「それにさ」と今度は薄あばた[#「あばた」に傍点]のある武士が、「敵には防備もないそうで」
「うん」といったは美男の武士である。「それに相手そのものが、一向腕ききではないのだからの」
「とはいえ聡明な人物とか、どんな素晴らしい用心を、いたしておるかもしれませんな」
 やけど[#「やけど」に傍点]のあと[#「あと」に傍点]のある武士である。
「そうだそうだ、それは判らぬ」美男の武士は合槌をうった。「で、十分いい含めてな」
「よろしゅうござる。大丈夫でござる。……島路、大里、矢田、小泉、これらの手合いへも申し含めましょう。……いや実際あの連中と来ては、飯より人殺しが好物なので」
「それはそうと花垣殿」ニヤニヤ笑いながら美男の武士へ、こういったのは薄あばた[#「あばた」に傍点]のある武士、「報酬に間違いはありますまいな」
 すると花垣と呼ばれた武士は――その名は志津馬というのであったが、さも呑み込んだというように、ポンとばかりに胸を打った。「大丈夫だよ、安心するがいい」
「これはそうなくてはなりますまいて。濡れ手で粟のつかみ取り――という次第でございますからな」
「その代わりこいつ[#「こいつ」に傍点]が失敗すると」花垣志津馬不安そうである。「あべこべに相手にしてやられる[#「してやられる」に傍点]」
「だからわれわれを鞭撻し、十分にお働かせなさるがよろしい」ちょっと凄味を見せたのは、指の欠けている武士であった。
「というのはどういう意味なのかな?」
 ちゃアんと分っておりながら、知らないように志津馬がいう。
「いただきたいもので、前祝いを」
「酒はさっきから飲んでいるではないか」
 こういいながら花垣志津馬は飲み散らした杯盤を眺めやった。
 と、ハッハッという笑声が、三人の口から同時に出た。
「酒も黄金の色ではあるが、ちと、その、どうも水っぽくてな」
「チャリンチャリンと音のするやつを」
「なんだなんだ、金がほしいのか」
 今気がついたというように、花垣志津馬は苦笑したが、
「持ってけ持ってけ。……分けろ分けろ」
「これは莫大……」
「十両ずつかな」
「後へ二十両残りそうだ」
「うん、しめて五十両か」
 安浪人め、三人ながら、手を延ばすとあわててひっ[#「ひっ」に傍点]つかんだが、ちょうどこの頃一軒の屋敷の、一つの部屋で一人の武士が誰にともなく話しかけている。

        二

「みんなお前が悪いのだ。俺は怨む、お前を怨む。またある意味では憐れんでもいる。……嫉妬! そうだ、その嫉妬が、一切お前を眩ませたのだ。そのくせどうだ、お前自身は? 好色そのもののような生活だったではないか! 俺は随分我慢した。最後まで我慢したといってもいい。そうしていまだ[#「いまだ」に傍点]に我慢している。……永い間の受難だった。いや、いまだに受難なのだ。俺ばかりではない。娘もだ! それをさえお前は餌にした。嫉妬の餌に! お前の嫉妬! ……だが俺は守って来た、お前の意志を守って来た! もちろん素晴らしい財産の、継承のためには相違ないが、それより一層俺としては、娘の幸福を願ったからだ。というとお前はいうかもしれない、『その娘が!』『その娘が!』と! ……が、俺はハッキリという、娘は要するに娘だと! それ以外には意味はない! それへ疑がいをかけるとは! それでも母か! それでも妻か! ……もちろん、彼女はよい娘だ。愛すべき娘には相違ない。で俺は愛したのだ。だがその愛は純なものだ。お前が『あいつ』を愛したそれと、どうして比較出来るものか! 『あいつ』は実に悪人だ。『あいつ』はその後手を変え、品を変え、我々二人を迫害した。そうして今でも迫害している。で、安穏はなかったのだ! しかしとうとう漕ぎ付けた。今日という日まで漕ぎ付けた。今夜さえ過ごせばもうよかろう。勝利はこっちのものになる。そうしたら俺達は自由になる。お前の意志から解放される。明るい日の目も見られるだろう。……それにしても俺は忘れない。俺達を縛った四ヵ条を! あれは普通の人間には考えも及ばぬ残酷なものだ。巧妙なものといってもいい。……破壊《こわ》せばいくらでも破壊される! 手間暇もいらず簡単に、しかも何らの非難も受けず――ところが俺には出来なかった。そういうことの出来ないように、いつか『慣らされ』てしまったからだ。それをお前は知っていた。そこでそいつ[#「そいつ」に傍点]へ付け込んだのだ。そうしてああいう条件を、俺の眼前へ出したのだ。……そこで、俺はハッキリという、お前は俺が良心のために、――俺の持っている良心のために――もがき苦しむのを見ようとして、ああいう条件を出したのだと! そうしてそれは成功した。で俺は苦しんだよ」
 突然ここで武士の声は、悲しそうな呻くような調子となった。
「良心のない者は幸福だ。それは何物にもとらえられないから」
 ここで一層武士の声は、悲しそうな調子を帯びて来た。
「ところが俺は持っていた。だから締め木にかけられたのだ! お前だお前だ、掛けたものは!」
 武士の姿は解らない。部屋に燈火がないからである。
 闇黒の中で誰にともなく、呼びかけ話しかけているのである。
 独立をした建物である。
 建物の周囲は庭園である。
 樹木がすくすくと繁っている。
 だが月光がさしている。
 その月光に照らされて、その建物がぼんやりと見える。一所瓦屋根が水のように光り、一所白壁が水のように光り、その外は木蔭にぼかされている。
 その中でしゃべっているのである。
 広大な母屋が一方にある。そこから廻廊が渡されてある。
 と、その廻廊の一所へ、ポッツリと人影が現われた。
 若い娘の姿である。
 建物に向かって声をかけた。
「お父様、お父様!」
 肩の辺に月光がさしている。で、そこだけが生白く見える。
「お父様、お父様!」
 ――すると、建物の戸口から、ポッツリと人影が現われた。
 戸口と廻廊とは続いている。
 現われたのは武士であった。
 しゃべっていた武士に相違ない。
 ちょうど廻廊の真ん中どころで、二つの人影はいきあった。そこへは月光がさしていない。で、姿はわからない。
 ただ、声ばかりが聞こえて来る。
「いよいよ今晩でございます。今晩限りでございます」
 こういったのは娘らしい。
「ああそうだよ、今晩だよ。そうして今晩限りだよ」
 こういったのは武士らしい。
 と、しばらく無言であった。

        三

 ザワ、ザワ、ザワと音がする。木立へ宵の風が渡るらしい。
 泉水の水が光っている。月が照らしているからだろう。
 泉水の向こう側がもり上がっている。大きな築山でもあるのだろう。その頂きがぬれている。月光がこぼれているからだろう。パタ、パタ、パタ……パタ、パタ、パタ……水鳥の羽音が聞こえて来る。泉水に飼われているのだろう。
 一団の真っ白の叢が見える。築山の裾に屯ろしている。ユラユラユラユラと揺れ動く。と、芳香が馨って来た。
 牡丹が群れ咲いているのらしい。
 と、娘の声がした。
「今夜も行かなければなりますまいか」悲しんでいるような声である。
「お行きお行き、行っておくれ」これは武士の声であった。
「それもお前のためなのだから」
「ああ」と娘の声がした。「どうでもよいのでございます。私のためなど、私のためなど」
 咽び泣くような声であった。
「ただ私はお父様のために……」
「娘よ」と武士の声がした。「同時に私のためにもなるよ」
「参るどころではございません。お父様のおためになりますのなら」
 ここでまたもや声が絶えた。
 で、ひっそりと静かである。
 ピシッ! と刎ねる音がした。
 泉水で鯉でも刎ねたのだろう。
 やっぱり静かだ。風も止んだ。
 と、また娘の声がした。
「恋の囮《おとり》! 恋の囮!」
「いや」とすぐに武士の声がした。「幸福の囮! 幸福の囮!」
 だが娘は反対らしい。「金の囮でございます!」
「仕方がないのだ、そういうことも。……この世に生きている以上はな」
「でもいつまでもお父様と、一緒に暮らすことが出来ましたら……」娘の声は思慕的であった。
「思うところはございません」
「それが……」と武士の声がした。たしなめるような声であった。「こういう受難を産んだのだよ」
「可哀そうな可哀そうなお母様!」
「だが私達も可哀そうだった」
「虐《しいた》げられたのでございますから」
「で、それから逃がれなければならない。そうしてその上へ出なければならない」
「逃がれなければなりません。その上へ出なければなりません」
「で、お前は行かなければならない」
「弁吉、右門次、左近を連れて……」
「そうだ、そうして、その上で、所作をしなければならないのだ」
「同じようなことを、長い間……」
「目っからないからだよ、適当な人が……」
「恐らく生涯目っかりますまい」
「目っけなければならないよ。……それも今夜! 今夜限りに!」武士の声には真剣さがあった。
「でも、お父様のある限りは……」こういった娘の声の中には、いよいよ思慕的の響きがある。
 と、泣き声が聞こえて来た。
 娘が泣いているのらしい。
 まだ宵である。で静かだ。屋敷は郊外にあるらしい。
「行っておいで!」と武士の声がした。
「はい」と娘の声がした。
 後は森閑と静かである。
 間もなく門の開く音がして、それが遠々しく聞こえて来たが、すぐに閉じる音がした。
 武士だけが一人立っている。じっとうなだれて考えている。肩の辺に月光がさしている。
 と女の呼ぶ声がした。
「今夜はお遁がしいたしません」
「うむ、お前か、うむ、島子か」
「はい」
 と女が現われた。中年者らしい女である。
 廻廊を伝って寄って来た。
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