武士の声は、悲しそうな調子を帯びて来た。
「ところが俺は持っていた。だから締め木にかけられたのだ! お前だお前だ、掛けたものは!」
武士の姿は解らない。部屋に燈火がないからである。
闇黒の中で誰にともなく、呼びかけ話しかけているのである。
独立をした建物である。
建物の周囲は庭園である。
樹木がすくすくと繁っている。
だが月光がさしている。
その月光に照らされて、その建物がぼんやりと見える。一所瓦屋根が水のように光り、一所白壁が水のように光り、その外は木蔭にぼかされている。
その中でしゃべっているのである。
広大な母屋が一方にある。そこから廻廊が渡されてある。
と、その廻廊の一所へ、ポッツリと人影が現われた。
若い娘の姿である。
建物に向かって声をかけた。
「お父様、お父様!」
肩の辺に月光がさしている。で、そこだけが生白く見える。
「お父様、お父様!」
――すると、建物の戸口から、ポッツリと人影が現われた。
戸口と廻廊とは続いている。
現われたのは武士であった。
しゃべっていた武士に相違ない。
ちょうど廻廊の真ん中どころで、二つの人影はいきあった。そこへは月光がさしていない。で、姿はわからない。
ただ、声ばかりが聞こえて来る。
「いよいよ今晩でございます。今晩限りでございます」
こういったのは娘らしい。
「ああそうだよ、今晩だよ。そうして今晩限りだよ」
こういったのは武士らしい。
と、しばらく無言であった。
三
ザワ、ザワ、ザワと音がする。木立へ宵の風が渡るらしい。
泉水の水が光っている。月が照らしているからだろう。
泉水の向こう側がもり上がっている。大きな築山でもあるのだろう。その頂きがぬれている。月光がこぼれているからだろう。パタ、パタ、パタ……パタ、パタ、パタ……水鳥の羽音が聞こえて来る。泉水に飼われているのだろう。
一団の真っ白の叢が見える。築山の裾に屯ろしている。ユラユラユラユラと揺れ動く。と、芳香が馨って来た。
牡丹が群れ咲いているのらしい。
と、娘の声がした。
「今夜も行かなければなりますまいか」悲しんでいるような声である。
「お行きお行き、行っておくれ」これは武士の声であった。
「それもお前のためなのだから」
「ああ」と娘の声がした。「どうでもよいのでございます。私のためな
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