ど、私のためなど」
 咽び泣くような声であった。
「ただ私はお父様のために……」
「娘よ」と武士の声がした。「同時に私のためにもなるよ」
「参るどころではございません。お父様のおためになりますのなら」
 ここでまたもや声が絶えた。
 で、ひっそりと静かである。
 ピシッ! と刎ねる音がした。
 泉水で鯉でも刎ねたのだろう。
 やっぱり静かだ。風も止んだ。
 と、また娘の声がした。
「恋の囮《おとり》! 恋の囮!」
「いや」とすぐに武士の声がした。「幸福の囮! 幸福の囮!」
 だが娘は反対らしい。「金の囮でございます!」
「仕方がないのだ、そういうことも。……この世に生きている以上はな」
「でもいつまでもお父様と、一緒に暮らすことが出来ましたら……」娘の声は思慕的であった。
「思うところはございません」
「それが……」と武士の声がした。たしなめるような声であった。「こういう受難を産んだのだよ」
「可哀そうな可哀そうなお母様!」
「だが私達も可哀そうだった」
「虐《しいた》げられたのでございますから」
「で、それから逃がれなければならない。そうしてその上へ出なければならない」
「逃がれなければなりません。その上へ出なければなりません」
「で、お前は行かなければならない」
「弁吉、右門次、左近を連れて……」
「そうだ、そうして、その上で、所作をしなければならないのだ」
「同じようなことを、長い間……」
「目っからないからだよ、適当な人が……」
「恐らく生涯目っかりますまい」
「目っけなければならないよ。……それも今夜! 今夜限りに!」武士の声には真剣さがあった。
「でも、お父様のある限りは……」こういった娘の声の中には、いよいよ思慕的の響きがある。
 と、泣き声が聞こえて来た。
 娘が泣いているのらしい。
 まだ宵である。で静かだ。屋敷は郊外にあるらしい。
「行っておいで!」と武士の声がした。
「はい」と娘の声がした。
 後は森閑と静かである。
 間もなく門の開く音がして、それが遠々しく聞こえて来たが、すぐに閉じる音がした。
 武士だけが一人立っている。じっとうなだれて考えている。肩の辺に月光がさしている。
 と女の呼ぶ声がした。
「今夜はお遁がしいたしません」
「うむ、お前か、うむ、島子か」
「はい」
 と女が現われた。中年者らしい女である。
 廻廊を伝って寄って来た。
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