傍点]と十平太は呼吸《いき》を呑んだが、さすがに逃げもしなかった。
「頭領」と声を掛けながら寝台《ねだい》の方へ突き進んだ。見れば寝台に紋太夫がいる。広東《カントン》出来の錦襴の筒袖に蜀紅錦の陣羽織を羽織り、亀甲《きっこう》模様の野袴を穿き、腰に小刀を帯びたままゴロリとばかりに寝ていたが、頸《くび》の周囲《まわり》に白布で幾重にもグルグル巻いているのがいつもの頭領と異《ちが》っている。
 両手で頸を抑えながら、大儀そうに紋太夫は立ち上がった。
「頸へさわっちゃいけないぜ」
 嗄《しわが》れた声で云いながら、黒檀の卓の前まで行くとドンと椅子へ腰掛けた。
「頭領」
 と十平太は立ったまま紋太夫の様子を眺めていたが、「いつお帰りになられましたな? そうして頸はどうなされましたな?」
「そんな事はどうでもよい。これちょっと手伝ってくれ。隠《かく》しから、書籍《ほん》を出してくれ」相変わらずいかにも呼吸《いき》苦しそうに紋太夫は云うのであった。
 で、十平太は書籍《ほん》を出した。黒い獣皮で装幀された厚い小型の本である。
「これだよ、地理書は! ああこれだよ!」
 嬉しそうに紋太夫は笑い出した。「アッハハハウフフフフアッハハハハ。ヒヒヒヒヒ」
 音はあっても響きのないいかにも気味の悪い笑声で、聞いているうちに、十平太は身の毛のよだつような気持ちがした。
「まるでこれでは幽霊だ。それに何んのために白い布《きれ》を頸にあんなに巻いているのだろう」
 口の中で呟いて、十平太は見詰めていた。
「ああそうだよ。これが地理書さ。……上陸すると俺はすぐに城代屋敷まで行ったものさ。かなり厳重な構えであったが、忍ぶことにかけては得意だからな。うまうま盗み出したというものさ」
「しかし頭領」と十平太は椅子に腰をかけながら、「あなたは町奉行手附きの者に捕らえられた筈ではありませんか」
「うん」
 と紋太夫は頷《うなず》いたが、「いかにも俺は捕らえられ住吉の海辺で首を切られたよ。が、この通りここにいる。そうしてお前と話している。ハハハハ、これでいいではないか。ただし首へはさわるなよ。ひょっと[#「ひょっと」に傍点]落ちると困るからな」
 書籍《ほん》を取り上げ頁《ページ》を翻《ひるがえ》し、じっと一所《ひとところ》を見詰めたが、ガラリ言葉の調子を変え紋太夫はこう云った。
「聞け十平太! よく聞くがい
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